清水信次氏(2010年、撮影:横溝敦)
ライフコーポレーション創業者の清水信次(しみず・のぶつぐ)氏は2022年、96歳で亡くなった。18歳で応召され戦地へ。そして終戦で復員してからは家族を養うために働き続ける人生だった。最晩年まで土曜日も出社し業界活動に励み、家族のため、日本のためにその生涯を費やした。
「兄弟二人三脚」で発展したライフだったが…
食品スーパー(SM)専業で業界首位クラスのライフコーポレーション。創業者の清水信次氏が起業したのは、終戦後、家族を養うためだった。つまりライフは清水氏にとって家業そのものだった。
スーパーマーケットの「ライフ」(写真:日刊工業新聞/共同通信イメージズ)
家族も清水氏を支えた。弟の清水三夫氏も1954年に同志社大学を卒業してライフ(当時は清水商店)に入社する。三夫氏は信次氏の右腕として実績を残し、兄弟二人三脚でライフは発展していった。
そして1982年10月、ライフは上場を果たす。同時に信次氏は社長の座を三夫氏に譲り会長に就任した。以降、信次氏は実権を三夫氏に渡し果実輸入の業界団体など公的な仕事に取り組むようになる。1986年には日本チェーンストア協会会長にも就任した。
ところが1988年、信次氏は三夫氏を解任し、社長に返り咲く。当時筆者は流通専門紙の編集部にいたが、この解任劇は業界の誰もが驚いた。兄弟経営は順調だったように見えていたからだ。
解任の理由は三夫氏が財テクに走ったためだ。1985年のプラザ合意により円高が進行。政府・日銀は円高不況を避けるために金融緩和・金利下げなどにより内需主導の経済を目指した。これによって生まれた余剰資金が土地と株に流れ込み、空前のバブルが発生した。その結果、多くの企業が財テクにのめり込んだ。
「財テク」という言葉は今では死語となっている。財務テクノロジーの略と聞くと高度な技術が必要のように思えるが、当時は単に土地や株に投資していただけだ。三夫氏は銀行から融資を受け、投資をすることで小売業では稼げないほどの利益を上げようとした。
信次氏はそれが許せなかった。自分は戦後、毎日のように実家のある三重で魚などの食料を仕入れ、大阪の闇市で売っていた。それで家族を食わせてきた。額に汗して働くことが何より大切だと信じていた。だからこそ財テクで不労所得を得ようとする弟が許せなかった。
しかも三夫氏が財テクにのめり込むほど店は荒れていった。社長が1円2円の利益に興味を示さなくなれば、そうなるのは必然だった。信次氏はそれにもがくぜんとした。そこで三夫氏を解任、自ら社長に復帰し、ライフの再建を目指すことを決断した。
特筆すべきは信次氏の決断の早さだ。1988年と言えばバブル経済はまだ上り坂。三夫氏の投資も、恐らく利益が出ていただろうし、仮に損失があってもそれほど大きくなかったはず。それでも信次氏は更迭を決断した。
こうした決断ができなくて、1990年代に入り大きな損失を出した企業は多い。信次氏がバブル経済の先行きをどれだけ読んでいたかは分からないが、利益は汗水流した結果、という信次氏の信念が、被害を未然に防いだともいえるだろう。
三夫氏を解任した信次氏だが、三夫氏を見捨てたわけではない。三夫氏は取締役も下りるが、のちにライフフーズ(外食の上場企業)社長を任せている。家族愛は変わらなかった。






