荀彧

 約1800年前、約100年にわたる三国の戦いを記録した歴史書「三国志」。そこに登場する曹操、劉備、孫権らリーダー、諸葛孔明ら智謀の軍師や勇将たちの行動は、現代を生きる私たちにもさまざまなヒントをもたらしてくれます。ビジネスはもちろん、人間関係やアフターコロナを生き抜く力を、最高の人間学「三国志」から学んでみませんか?

三国志を知る人が、必ず覚える3人の天才参謀…

 三国志を知る人が、最初に覚える3人の天才参謀。それは荀彧(魏)、周瑜(呉)、諸葛亮(蜀)でしょう。彼らはそれぞれ曹操、劉備、孫権の参謀(軍師)となった天才でした。

 彼らが生を受けたのは、荀彧163年、周瑜175年、諸葛亮181年と時代がやや異なります。周瑜は孫策に従い、董卓(192年敗死)討伐の軍勢にも加わっていますが、荀彧は191年に曹操に初めて出会います。

 諸葛亮と劉備の出会いは207年ですから、翌208年の赤壁で交錯する彼らの足跡は、その時点までキャリアの長短も含めて大きく異なります(荀彧は赤壁の戦いには従軍していませんが)。

 荀彧・周瑜・諸葛亮の3人は、どのようにして主君に出会ったのでしょうか。その過程の分析を通じて、「本当に賢い人物たちが」乱世に飛躍するために何を考え、何を求めたのかを探っていきたいと思います。

祖父は高名な官僚、名門中の名門の生まれ「荀彧」という人物

 荀彧は名家の生まれで、若いころから「王佐の才」を持つと呼ばれたほどでした。「王佐の才」とは、帝王を補佐できる資質という意味です。彼は一時推挙されて官僚となっていましたが、董卓の乱による危険を避けるため帰郷しています。

 故郷の人たちに戦乱の危険を伝えるも動かず、荀彧は一族のみを連れて避難します(彼の予想は当たり、その後に故郷は戦闘で蹂躙された)。

 荀彧はその後、袁紹に一時仕えますがすぐに見切りをつけて曹操に仕えます。曹操の右腕となり、後漢の献帝を迎え入れる策を掲げたことで、曹操は皇帝の権力を盾に勢力をさらに拡大できたのは、多くの三国志読者の知るところでしょう。

 荀彧の若いころの選択を見ると、2つの決断が分かります。

1.危機を予測し、それを避ける行動をためらわないこと

2.次の時代を創る人物を見極め、その人物を大成させることを目指す

 受け身であれば推挙された後漢の官僚として生きる道が荀彧にはありました。戦乱を避けるため逃げた先の土地は袁紹の支配下となり、自然のなりゆきなら、袁紹の配下の参謀役などになっていたはずです。

 荀彧は聡明な人物らしく、徹底してリスクを避けています。王佐の才を持つ荀彧にとって、「凡庸なリーダーの下につくことも大きなリスク」だったのでしょう。

 しかし袁紹配下から脱出するだけでは荀彧には不十分でした。1900年近くのちの日本にいる私たち(三国志ファン)が彼を広く知るには、曹操という人物を荀彧が探し当てる必要があったのです。名家の一族の一人というだけでは、1900年も名を残すことはできません。

 本物の王を求めてリスクを取って行動し、曹操に辿り着いたことが荀彧を輝かせた。新時代を創る人物が、自らの才能発露に不可欠だと判断したことが、荀彧を本物の王佐の人にしたのです。