関羽

 約1800年前、約100年にわたる三国の戦いを記録した歴史書「三国志」。そこに登場する曹操、劉備、孫権らリーダー、諸葛孔明ら智謀の軍師や勇将たちの行動は、現代を生きる私たちにもさまざまなヒントをもたらしてくれます。ビジネスはもちろん、人間関係やアフターコロナを生き抜く力を、最高の人間学「三国志」から学んでみませんか?

劉備配下の猛将、関羽の流浪と活躍

 219年7月に漢中王となった劉備は、その年に自身の最大版図を獲得し、劉備軍団はようやく天下の一角を占める勢力に成長しました。その絶頂の翌8月、劉備軍団の最大の悲劇となる樊城の戦いを関羽が開始します。

 関羽は当初、北上して包囲した魏の樊城の戦いで戦局を優位に進めるも、魏と結んだ呉によって背後の拠点(江陵)を失い、わずか4カ月後の219年12月には息子の関平とともに敗死します。

 関羽は、劉備が184年の黄巾の乱で義勇軍として挙兵した当時からそばにあり、関羽、張飛の二人は常に劉備の身辺を警護したほどの固い信頼関係でした。関羽と張飛は、それぞれ兵1万人に匹敵する猛将であると、敵の武将からも恐れられたほどの武勇を発揮します。

『(陳寿の)評にいう。関羽と張飛はともに「万人の敵」(1万人に匹敵する)と称され、世の「虎臣」であった。関羽は曹公(曹操)に(顔良を斬る手柄で恩に)報い、張飛は義により厳顔を釈し、ともに国士の風がある』(書籍『関羽 神になった「三国志の英雄」より』

 劉備と関羽、張飛は184年から戦闘を開始するも、英雄が乱立する乱世で自身の拠点を持てず、流浪を繰り返しながら各地で傭兵軍団の隊長のような役割を果たしながら生き延びていきます。猛将の関羽と張飛は、苦難の道を劉備と常にともに歩き続けたのです。