島津製作所のロゴ写真提供:島津製作所

 社史研究家の村橋勝子氏が小説顔負けの面白さに満ちた社史を「意外性」の観点から紹介する本連載。第5回は京都に本社を置く精密機器メーカー島津製作所と、カリーで有名な食品メーカー中村屋を取り上げる。

 社名の由来で割合高いのは、創業者の名前(姓)や創業の地を冠したものだろう。しかし、よく見るとさまざまだ。

創業者の父と天才発明家の息子

 2002年に従業員の田中耕一さんがノーベル化学賞を受賞して一躍有名になった島津製作所。同社は明治の初期に京都で歴史の幕を開けたが、創業当初から確たる理念に基づき、優れた技術を有していた。礎を築いたのは、2人の島津源蔵である。

初代 島津源蔵(写真提供:島津製作所)

 江戸時代に栄えていた京都は、幕末の戦乱と東京遷都によって、明治に入ると火が消えたように沈みきってしまった。深刻な衰退から立ち直るため、京都府や心ある人々は、反骨精神に燃え、積極的な産業振興を展開した。中でも、官制の勧業・教育施設で現在の工業試験場というべき舎密局(せいみきょく)は、その一大拠点で、京都の近代工業の発展に大きな足跡を残すこととなった。

 創業者・島津源蔵は仏具師だったが、京都府が展開した殖産興業に刺激を受け、舎密局が開局されると、足繁く通って、理化学の教育を受けたり、いろいろな実験に加わり、旺盛な知識欲を満たしていった。そして、「資源の乏しいわが国の進むべき道は科学立国だ」との思いから、教育用理化学器械の製造に一生を賭けようと、1875年に理化学器械の製造を始めた。しかし、すぐに注文が舞い込むわけでもなく、事業は困難を極めた。

 1877年11月に東京上野で開催された第1回内国博覧会に錫製ブージー(医療具)を出品し、褒状を受けたことが一つの光明になって、翌月には、有人軽気球の飛揚に成功、これが大変な人気を呼んだ。1878年には舎密局でドイツ人ワグネル博士に出会い、その後3年間、ワグネルから西洋の科学技術の指導を受け、理化学器械製造の技術を深め、1882年には、わが国最初の理化学器械カタログ、図入りの『理化器械目録表』を発行した。

二代 島津源蔵(写真提供:島津製作所)

 その源蔵の情熱と資質を受け継いだ長男・梅治郎も素晴らしく、1884年、弱冠16歳で「ウイムシャースト式感応起電機」を完成した。これは、目に見えないエレキを火花と音で捉えたもので、「島津の電気」と呼ばれ、その後数十年もの間、理科教育用に珍重された器械だが、1年前に英国で発明されたものを、挿絵だけ見て独力で作り上げた。その才能に、当時の文部大臣、森有礼(もり・ありのり)も舌を巻いたという。

 初代源蔵が1894年に世を去ると、所主となった梅治郎は26歳で二代源蔵を襲名、新しい分野への挑戦を続け、事業を発展させた。当時、全て輸入に依存し、国産は至難とさえ言われていた蓄電池の研究に力を注ぎ、1895年に製造を開始すると、さまざまな分野で需要が増大したが、電池事業を飛躍的に伸展させるため、資金、組織の面からも独立させる必要が生じ、1917年に電池部門を分離して日本電池株式会社(現在のジーエス・ユアサコーポレーション)を設立した。1896年10月にはX線写真の撮影に成功しているが、ドイツのヴィルヘルム・レントゲンがX線を発見してから11カ月後のことで、1909年には、国産初の医療用X線装置を完成させ、病院に納入した。

 さらに、人体解剖模型、その技術を活用したマネキン人形、哺乳類・鳥類の標本、光学・電気計測器、易反応性鉛粉法など、時代の先を行く多くの製品群を生み出した二代源蔵は、1930年に昭和天皇から「十大発明家」の1人にも選ばれ、生涯を通じて、発明考案は178件に及んだ。