――情シスのあと、記者になったという形なんですか?

酒井 異動でメディアの部門に戻ることになって。技術部にいたいと泣いて上司を困らせたのですが、結局、会社の決定は変えられず・・・。荷物を詰めた段ボールを持ってメディアの部署に向かうときに、部署のおじさんが段ボールを持って一緒に付いて来てくれて。そのとき障害が発生してすぐに帰っちゃったんですが。メディアに帰ったときに、何かそういう人たちを書きたいなと思ったんですよね。

 とはいえ、記者になったのはフリーになってからで、メディア部門ではIT関連のイベントの企画運営に携わっていました。本当にITのここ5、6年の歴史そのままですが、最初はバックアップとかネットワークとか、オンプレ系の技術のイベント、それが段々とAWSとかGoogleとかクラウド系になっていって、ずっとあるのがサイバーセキュリティですね。年間60とか70とかそのくらいの数のイベントを企画して、講師と打ち合わせして集客して、というのを延々とやっていました。

 楽しかったですね。ITっていろいろな天才がいがちな領域で、例えば、サイバーセキュリティではハッカーと呼ばれるような天才たちがいて、その人たちに講演をお願いして、最初に出てくる講演資料を一番に見ることができる。それが結構、無茶苦茶だったりするんですが、だけど話を聞くと「この人、本当に天才だな」と感じる。講演を聴きに来てくれた人にどういう言い方をしたら伝わるかなというのを一緒に考えていく過程がすごく面白かったんです。もちろん、しっかりした講演資料を作られる方、任せておいて大丈夫という人が多いんですけど、中には・・・。でも、そういう人こそ"推せる"んですよね。ロイヤルホストとかで4時間、5時間と打ち合わせをして、こうしたらいいよと。推しのためにと思ってやっていましたね。

 ただ、天才だったり、実績を残している、すごい人たちに会って、話をするたびに、自分が対等に会話ができていないなってすごく思うようになりました。冷静に考えれば、もちろん、年齢も全然違いますし、やっていることも違うので、それはそうなんですが。でも、それがすごく自分の中でコンプレックスになってしまって、何か経験を増やしたいなと思ったんです。そのまま会社にいたら、その後の職業人生は何となく描ける。でも、それだけでは対等にはなれないと。それで、某スタートアップの広報とアイティメディアを含めて幾つか、という形で半分正社員、半分フリーランスとして働くことにしました。結果的に、半分正社員の方はうまくいきませんでしたけど。気持ちはメディアにあって、メディアの人として対等に彼らと会話をできるように成長したいと思ったのに、片やスタートアップにいるというのが・・・。気持ちが中途半端になってしまって。端的に言うと、推せなかったんですね。

――推せるものを推すというのが、酒井さんの軸になっているんですね。

酒井 私の場合は推せないと駄目なんです。今はフリーランスで広報・PRの仕事もやっているんですが、自分が推せる会社でしかやらない。以前、ロイヤルホストで講演資料を一緒に作っていた天才にも「あなたは秋元康ですね。僕は踊りますよ、あなたのために」と言われたりしました(笑)