被災地の道から見えてくる「復興」と「再建」のコンセプト

福島から青森まで、太平洋岸を走破する旅(後篇)
2013.3.12(火) 両角 岳彦 follow フォロー help フォロー中
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大船渡市街から西側の山塊の中まで登って、供用中の大船渡三陸道路を走る。高速道路ではなく高規格道路としての構造であり、今は2車線対面通行。写真からも分かるように震災以前に供用開始した区間であり、地震によって路面や路床が傷んでいて、今も補修作業が行われている個所が複数ある。(筆者撮影、以下すべて)
宮古と盛岡を結ぶ国道106号が宮古市街に近づいた地点から国道45号の宮古湾最奥部を結ぶ形で4.8キロメートルが開通している宮古道路。現状では三角形の1辺をショートカットするルートだが、将来は三陸沿岸道路の一部となり、宮古盛岡横断道路とも接続する。ここも山間だが、写真の先に高台移転の住宅地を切り開く土木工事が進められていた。生活の場として見ると、交通弱者のためのアクセスの整備も含めて、かなり厳しいと言わざるを得ない。
宮古港のすぐ北、宮古湾の入り口に突き出す小さな半島の先は景勝地として知られる浄土ヶ浜。十数年前も同じ場所に長距離テスト中の車両を置いて写真を撮った個人的記憶が甦った。人間よりも長い時間を過ごしてきた岩の群れは津波にも姿を変えていない。波動の伝播が少し遮られる地形でもある。今度のテストカーは、前回のコラムでも紹介したように北海道まで往復3000キロメートル以上を共にしたマツダCX-5ディーゼル。
太平洋に直接開口している小さな湾の奥の平地に形成されていた田老地区。この写真の中央の平地に広がっていた街並みはそっくり失われている。左奥が湾と港であり、ここもその海側と街区を仕切る形で防潮堤が築かれていた。高さ10メートル、全長2.4キロメートルにおよぶ堤防で囲まれた街だったのである。 だが今回の津波はそれも簡単に越えた。川から写真撮影位置に向かって急に上り斜面となり、そこに建てられた家々は破壊を免れている。
田老地区を見下ろす写真撮影位置に建てられた真新しい警告標識。「過去の」には、2011年3月の津波も含まれる。石巻から北上する道々の中でずっと、盛り上がった丘陵状の岬を越えて海際に下りてゆく所、逆に湾を背にして登り始める所ではいつもこの標識に出合った。しかし前の写真からも分かるように、海際にいた人々が津波発生の第一報を受けてここより上に避難するのは、かなり大変である。特に移動手段を持たない人々にとっては。
宮古市街から北へ10キロメートル余り。太平洋に鋭く突き出した真崎の根元の小さな入り江に作られた小港漁港も、津波の直撃を受けて、港の設備も狭い岸辺に建てられていた水産加工施設も、全てが消え去っている。しかし小さなボート型の漁船が陸上にあり、目の前に広がる太平洋に日々乗り出していることが分かる。以前はもっと大型の漁船を陸から降ろした施設の残骸が残る。海水浴場もあり、風光明媚でしかも美味しい魚が食べられる場所として、近隣の人々にはおなじみだったのだろうと思う。
真崎小港漁港を太平洋の荒波から守っていた防波堤の巨大なコンクリート構造物が、津波の流体運動エネルギーの直撃を受けて簡単に転がされ、内部の太い鉄筋がスパッと切断されてバラバラに散らばってしまっている。恐るべき物理的エネルギーを目の当たりにする光景。こうした防波防潮堤は海底を平坦にした基礎の上に、事実上「置かれている」だけの構造であり、どんなに高くしたところで、押し寄せてくる津波、それが一気に退いてゆく引き波の運動エネルギーを受け止めることは不可能に近い。
小港漁港の背後に立ち上がる崖の間を縫うように登った所にある台地に、家と農地が点在し、集落が形成されている。海岸には家を建てられる平地がない、という地形ではあるがそれ以上に、良い漁場を前にしながらも度々津波に襲われた経験から、人々の当然の知恵として「暮らす場所は高台に」を実行してきたのだろう。田老からは目と鼻の先と言える場所である。
田老から北に進むと国道45号は内陸側に入ってゆくのだが、我々は海側に下りて海岸沿いを行く県道44号をたどってみた。断崖と小さな湾が連続する景色は三陸沿岸でも屈指のものであり、そこを第3セクターの三陸鉄道・北リアス線が通る。駅それぞれも建屋のデザインや命名に工夫を凝らし、田野畑は「銀河鉄道の夜」から「カンパネルラ」と名付けられている。トンネルと橋梁で岸沿いのルートをつないだ路線は津波で甚大な被害を受け、北リアス線は田野畑~小本間がいまだに不通となっている。しかし全線不通だった南リアス線の南半分が2013年4月に運転再開。2014年春には南北全線の復旧を目指しているという。
田老から田野畑にかけては鮭の故郷の川がいくつもあり、ふ化事業も行われていた。田野畑の施設は津波で失われ、その再建が田野畑駅から1.5キロメートルほど北の入り江、明戸地区で進められている。元はキャンプ場だった土地でここも津波が1キロメートル以上遡上しているが、写真に見るようにまず嵩上げした四角い台地を造成し、その背後にふ化場を建設している。自然に対抗する設計としてはいささか強引なものに見えなくもないが。
久慈に近づくと津波の運動エネルギーもさすがに弱くなっていたことかうかがえるが、東向きの平地が太平洋に開いた野田湾は、ここまで見てきた湾の奥の平地と同様の被害を受けている。その先にある南東向きの久喜漁港は、以前から津波の被害が繰り返された所で、集落全体を高い防潮堤で取り囲み、いざという時には写真の「通行止」と書かれた可動扉を閉じて、完全に閉じた空間とする。しかし今回の津波はそれも越えたことは、内側に立つ見張り小屋がねじ曲がり、海側一層目の家屋に浸水の痕が見えることから確認できる。
久慈市街の南東には浅い半島が太平洋に向けて突き出している。その南面に久喜漁港があり、北面には「北限の海女」で知られる小袖漁港がある。それぞれの後背部はかなり急な斜面で一気に登り、半島全体が高台になっている。特に小袖漁港側からこの斜面と台地にはびっしりと住宅が立ち並び、小学校が2つ、中学校も1つある稠密な町が形成されている。これもまた古くからの高台移転、大家族の分家、そして久慈市の発展に伴う郊外住宅地の開発などが重なり合って生まれたものと推測できる。

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