井戸川さんが辞任を求められた背景

日野:井戸川さんが町長になった5年半後に、福島第一原発事故が発生しました。双葉町は原発のある町ですから、翌日には住民たちは避難を始めました。最初、双葉町から50キロほど離れた川俣町まで避難しましたが、そこにも放射能が来て、線量計がふり切れました。

 市町村は、こういう時には国や県の指示通りに行動するのが一般的です。ところが井戸川さんは、福島県庁に行き、混乱している役所の様子を見て、「これはアテにならない」と判断しました。

 そして、自分で調べ、伝手を辿り、埼玉スーパーアリーナだったら2000人ほど収容できると知り、町民を引き連れて埼玉に大移動しました。埼玉県知事や埼玉市長なども出迎えて、この時は英雄として称えられました。

 埼玉県の加須市に旧騎西高校という廃校になった高校の校舎が残っているのですが、交渉の末に、井戸川さんはそこに避難所と役場を移しました。そこを一時的な拠点にして、国や県と今後について決めていく予定でした。

 汚染しているので「1年や2年では福島に戻れない」と井戸川さんは考えましたが、国と県は除染や賠償など形ばかりの復興政策を次々と打ち出して「福島に戻ってください」と井戸川さんに迫っていきました。

 井戸川さんは国の要求を拒否し続けましたが、国策に正面から「NO」と言う人は、お金や人に関することなどで影響を受けます。真綿で首を締められるように追い詰められ、井戸川さんは、次第に身動きが取れなくなっていきました。

 そして、事故からわずか2年足らずで、足元の町議会議員たちから不信任案を叩きつけられました。「なぜ他の町と同じように賠償を受け入れないのだ」と辞任を求められたのです。

「こんな形ばかりの賠償ではダメだ」という井戸川さんの主張と、「いいじゃないか、他の町はみんな受け入れているぞ」「他の町と同じようにやろうじゃないか」という反対派の主張がぶつかった結果、2期目の任期半ばの2013年2月12日に、井戸川さんは、町長を辞任しました。

──井戸川さんが、国の対応が形ばかりだと感じるのはなぜなのでしょうか?

日野:大きく分けると賠償と除染です。