大和郡山城 撮影/西股 総生(以下同)

(城郭・戦国史研究家:西股 総生)

相当な力作ともいうべき堅城

 近鉄橿原線で大和郡山に向かうと、駅に入る直前、水堀ごしに茶色い櫓が見えて、「おっ、城だ」と気付く。1980年代に木造でそれらしく復興された大和郡山城の櫓だ。

 たしかに、天守はなくとも櫓が復興されていれば、車窓からも城とわかるし、見映えもする。実際、大和郡山城を紹介するサイトやパンフでは必ずといってよいほど、この復興櫓の写真が使われる。ことに春先には堀端の桜が満開になるから、美しい写真が撮れる。

木造で復興された隅櫓は近鉄線の車窓からもよく目立つが…

  本当は天守を再建したいけれど、考証や予算の関係で難しいから、せめて櫓や門を、というのはよくある話で、少しでもお城らしくして地元の人に親しんでもらいたい、観光客に来てもらいたい、との地元の人たちの気持ちはわかる。

 ただ、全国の城を歩いていると、「うーん、これ本当に復興する必要があったのだろうか?」と疑問に感じてしまうことが、ままある。大和郡山城こそは、そんな疑問符が浮かんできてしまう城の代表例なのだ。

台地続きになる城の北側に掘られた巨大な空堀。この堀を見た時、声が出た「うおっ」

 復興された櫓や門がなまじ目立っているために、この城の本当の魅力が、うまく伝わらなくなっているように感じるのだ。この城の本当の魅力は、そこじゃない。本当は相当な力作ともいうべき堅城なのに、復興された櫓がコンパクトであるために、大した城ではないように見えてしまうのである。

 大和郡山にはもともと筒井順慶の城があったが、この城を本格的な近世城郭として築いたのは豊臣秀長だ。そう、天下人秀吉の補佐役として知られる弟の秀長である。

 秀長が、大和・和泉・紀伊100万石の太守として郡山に入り、城を築き始めたのは1585年(天正13)のこと。秀吉が関白に任じられて、天下人への道を驀進していた年だから、信頼する弟に畿内周辺の地盤固めを委ねた、というわけだ。

秀長が築いた天守台。五重天守とする説もあるがサイズから見て四重、ただしかなり凝ったデザインの天守だったようだ
築城に際しては石材が片端からかき集められたらしく、天守台の石垣には転用石材が多い

 とはいえ戦国時代の大和や紀伊は、統治に何かと問題のある厄介な土地柄だったから、不測の事態に備えて、城は堅固に築く必要があった。結果として大和郡山城は、ダイナミックな石垣と堀を擁する堅城となった。しかも、この城の縄張は秀吉の大坂城によく似ている、と研究者から評されている。要するに大坂城の弟分のような城なのだ。

不揃いな石材のサイズや未発達な算木積みなど、本丸の石垣は秀長時代の技法を伝える

 秀長が病没した後、城と領地は息子の秀保に受け継がれたが、その秀保も若死にしてしまい、大和郡山には五奉行の増田長盛が22万石で入る。関ヶ原合戦の後、大和郡山城の建物は大半が他へ移築され、廃城に近い状態になったようだ。

 やがて徳川幕府と豊臣秀頼の関係がこじれてくると、家康は秀頼に大坂を出て大和に移るよう提案する。この提案は、秀長の残したミニ大坂城である郡山城の存在が前提となっていたわけだ。

追手門の巨大な枡形は100万石にふさわしい。外側に高麗門を伴わないのも豊臣期のスタイル。復興建物よりそちらの方が本当の見どころだ

 その秀頼が大坂の陣で滅亡すると、大和郡山の重要性を感じていた幕府は、10万石クラスの譜代大名を交替で入れることにした。城は、この時期に建物が復興されたり石垣が修復されたりして、現在の形になった。

 その後、1724年(享保9)になって柳沢吉里が甲府から15万石で入り、代々続いて維新に至る。吉里は、側用人として権勢を振るった柳沢吉保の嫡男で、吉保が失脚してからは柳沢家は甲斐を領する一大名となっていたが、将軍吉宗の代になって大和へと遠ざけられたわけだ。

石垣の中には元和年間以降の技法を示す箇所もある。譜代大名時代の改修だろう

 そんな吉里の身の上に思いを馳せながら城を歩いていると、ふと、妄想したくなってしまうのだ。豊臣家が、大和郡山の一大名として存続する世界線を……まあ、大和に移ったからといって家康が許してくれたかは微妙だが。

 そして、やっぱり思うのだ。そんな世界線を妄想する現場としては、ただ壮大な石垣と堀だけが累々と残る大和郡山城の方が、よかったんじゃないだろうか?

整備の際に石垣の中から「救出」された石塔類

 

[付記]今回、写真のチョイスにだいぶ悩んだ。それだけ石垣がかっこいい、石垣好きにはたまらん城なのである。