写真=ZUMA Press/アフロ 

(歴史ライター:西股 総生)

予想外の場所での戦いが左右する場合も

 戦争の中で、ある場所の攻防戦が戦局全体のターニングポイントとなることがあります。というと、戦略上の要地、交通の要衝が、なるべくして激戦地となるように思う方が多いかもしれません。

 ところが、歴史をひもといてみると、意外な事実が浮かび上がってきます。さほどの要地・要衝でもない場所が激戦地となったり、まったく予想外の場所での戦いが、結果として戦局全体を左右するケースが、ままあるのです。 

 以下、この稿では、軍事に詳しくない人のために、むつかしい軍事学の専門用語や固有名詞(地名・人名・部隊名)などはできるだけ使わずに、第2次世界大戦中におきた二つの有名な戦いを概説します。

 ガダルカナル、という地名は、このサイトを読んでいるような方なら、一度は耳にしたことがあるでしょう。第2次大戦の日米戦における屈指の激戦地であり、凄惨な飢餓の戦場としても知られる島です。

 ガダルカナルは、現在はソロモン諸島の首都がある島で、大きさは四国の半分くらい。1942年(昭和17)の夏に、この島が戦場となったとき、大本営の参謀すらガダルカナルの名は知りませんでした。この島が多くの兵士たちを飲みこむに至ったいきさつは、次のようなものです。

 対米英開戦にともなって南方に進出した日本海軍は、現在のパプア・ニューギニアにあるラバウルに、拠点となる航空基地をおきました。ラバウルとガダルカナルとは1000キロも離れていますから、ラバウル防衛のためにガダルカナルに基地を造る必要は、本来ならありません。

 日本軍がガダルカナルを確保しようと考えた理由は、飛行機の航続距離という意外な問題によるものです。当時、日本海軍が主力としていた零式戦闘機や一式陸上攻撃機は、航続距離が非常に長かったので、ラバウルを中心に広範囲に活動していました。そこで、作戦中にエンジンが不調になったり、敵との交戦でダメージを負った機を一時的に収容できる、補助飛行場がほしいという話が持ちあがりました。

 そこで、ガダルカナルに基地設営隊が送り込まれることになります。当時のガダルカナルは、双方の戦力空白地帯のような場所です。日本側は、こんな島に米軍が攻撃を仕掛けてくるとは、よもや思わなかったので、上陸した設営隊はほとんど丸腰です。

 一方、ここまで日本軍に苦杯を喫していた米軍は、何とか反撃の機会を得るべく策を練っていました。彼らは、ソロモン方面の島づたいに少しずつ前進してゆく作戦を考え、準備を進めていました。

 そんなところに、日本軍がガダルカナルに上陸した、という報せが入ってきたのです。米軍側は、反攻の狼煙を上げるべく、ガダルカナルに海兵隊を上陸させます。丸腰の日本軍設営隊は、ひとたまりもありません。

1942年8月、ガダルカナルに上陸する海兵隊

 驚いた日本側では、ガダルカナル奪回を企てます。ところが、軍上層部の認識不足や、現場レベルでのミスなどが重なり、日本軍の奪回作戦はうまく進まず、典型的な「兵力の逐次投入」の様相を呈することとなります。

 かたや米軍側は、増援部隊と重装備を次々と送り込み、日本軍の上陸部隊は苦境に陥ります。当然、双方の海軍は相手方の輸送を妨害しにかかりますから、ガダルカナル周辺の海域では大小の海戦が何度も起きることになりました。

 ところが、日本側は陸軍と海軍の連携が悪く、せっかく海戦で勝利しても、ガダルカナルの戦局には寄与せず、航空戦でも日本は次第に劣勢に追い込まれてゆきました。ガダルカナルとその周辺は、兵士・艦船・航空機の巨大な墓場と化していったのです。

 こうして消耗戦がつづきましたが、最終的に米軍側はガダルカナルを確保し通し、日本軍の敗退は決定的となりました。そして、この間に日米の国力の差が決定的に作用することとなったのです。

 ガダルカナルでの戦いが決着したとき、米側は戦時体制下で量産を始めた兵器・弾薬や、動員した人員が戦場に届いて、反攻態勢ができあがっていました。対する日本側、とくに海軍は艦船と航空機、多くの熟練パイロットを消耗して、米側に戦力で大きく水をあけられてしまったのです。(続く)