鶴岡八幡宮 写真/アフロ

(城郭・戦国史研究家:西股 総生)

「公文所」を「政所」に改める

 今回は、頼朝の昇進について考えてみましょう。

 頼朝は、平家討伐の功により正二位という高い位を与えられました。さらに1190年(建久元)、はじめて自ら大軍を率いて上洛すると、権大納言(ごんのだいなごん)と右近衛大将(うこのえたいしょう)に任じられます。

 近衛府(このえふ)という役所は、平安時代後期にはすっかり有名無実化してはいましたが、もともとは天皇を守る親衛隊ですから、右近衛大将は武家の棟梁にふさわしい官職といえます。でも、このときの任官は、それ以上に大きな意味をもつことになりました。

 というのも、平安時代の貴族社会では、三位以上の位をもつ人が公卿(くぎょう)と呼ばれ、トップセレブを構成します。つまりは国政を動かす政治家で、もっとあけすけに言うなら、荘園や公領からの上納分を一番上で吸い上げる、特権階級です。

 ただし、官職(ポスト)を伴わない位だけの正二位は、「名誉二位」みたいなものです。これに権大納言・右近衛大将という官職がともなったことで、頼朝は正式にトップセレブの仲間入りを果たすことになりました。実際、鎌倉に帰った頼朝は、幕府の「公文所(くもんじょ)」という役所を「政所(まんどころ)」と改めます。

 もともと公文所の仕事は、鎌倉殿である頼朝の命令を文書にして出すことでした。このときの文書は「袖判下文(そではんくだしぶみ)」というスタイルで、書記官の作成した文書の端に頼朝が花押(かおう)、つまり直筆サインを入れます。

 かたや「政所」は、三位以上のトップセレブだけが持つことのできる機関で、文書も「政所下文(まんどころくだしぶみ)」という形式になります。これは、鎌倉殿の命によって政所が出す形をとっていて、スタッフが何人もズラズラと署名するだけで、鎌倉殿本人はわざわざ花押を入れません。

源氏山公園の源頼朝像 写真/西股 総生

 トップセレブは、たくさんの利権や資産を持っていて、それらを管理運用するために膨大な文書を出さなければなりません。いちいち本人がサインなんかしない、秘書が全部事務処理します、というスタイルに切り替わるのです。

 現代風にいうなら、個人事務所から法人格の資産管理団体に昇格した、みたいな感じです。頼朝の昇進は、鎌倉幕府が支配組織としてステップアップすることを意味したのです。

 ただし、昔気質の御家人たちの中には、こうした切り替えに不満をもつ者もいました。「頼朝様の花押がない文書じゃ話にならん」というわけです。今でいうなら、銀行の通帳はやっばり紙で持っていたい、みたいなものです。

 実際、千葉常胤のような古株の大物御家人は、従来どおり袖判入りの文書をもらっていたことがわかっています。これまでの功績に免じた特例措置、というわけです。

千葉常胤

 こうして、組織が整ったことにより、鎌倉殿と御家人たちとの距離は開いてゆきました。挙兵の頃の頼朝は、武士たちとワイワイ相談したり、ときには酒を飲んだりできる存在でした。

 でも、いまや、時政・義時・安達盛長・梶原景時といった側近や、大江広元・三善康信といった事務方に囲まれた、雲の上の人になってしまったのです。こうした関係の変化が、幕府のあり方に微妙な陰を投げかけてゆくのです。

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