17世紀初め、中国東北部に住む満州族(女真)が、明王朝を滅ぼして清王朝を樹立すると、モンゴルの文化や伝統を尊重した。満州族は文字を持たなかったため、当初はモンゴル語を清王朝の公用文字として使ったくらいだ。清王朝は、モンゴルを青海 、チベット、新疆(ウイグル)とともに「藩部」(自治を認めて間接的に支配する地)と定めて、ゆるやかな関係性を保った。

二分されたモンゴル

 清王朝は約300年の栄華を極めたが、1911年、孫文が「漢民族の国家を再興する」という旗印を掲げて辛亥革命を起こし、清王朝を崩壊させた。1915年、ソ連は中華民国・北京政府に提案して「キャフタ条約」を結び、独立を望んでいたモンゴル人の意思を無視して、モンゴルを二つに分けた。ソ連に隣接する外モンゴル(北モンゴル)に自治を認める代わりに、中国に隣接する内モンゴル(南モンゴル)を中華民国領に編入したのである。1924年、外モンゴルはソ連の影響を受けて社会主義国となり、モンゴル人民共和国として独立した。

 社会主義国・ソ連の影響力は強かった。中国に共産党を誕生させたばかりか、中国東北部に進出して鉄道を敷設して居座り、中華民国を揺さぶった。朝鮮半島にも影響力が及んだ。

 当時の日本は、ロシア、そしてその後のソ連が北海道まで進攻してくるのではないかという恐れを抱いていた。そのため先手必勝で、日露戦争(1905年)をしかけた。この戦争に勝利し、ロシアが清国から与えられていた大連と旅順の租借権、さらに東清鉄道の旅順-長春間支線の租借権を獲得することに成功した。これを足掛かりに、ロシア革命を経てソビエト連邦となっていた同国を中国・東北部から追い出し、そこに退位した清朝皇帝・溥儀をいただいて「満州国」(1932年)を樹立した。それと同時に、ソ連に対する“防共”戦線の最前線とみなす内モンゴルに進攻して占領。日本に協力する「蒙古聯盟自治政府」を樹立した。