一次史料に見える「新さう」は?

 二つ目は、以前からよく知られている史料だが、改めて読み直してみることで、謙信妻帯の可能性を示していることが指摘された。

 川中島合戦直前の永禄4年(1561)6月2日の朱印状で、関東に在住する謙信が越後の手の者に対して、「新さう」という人物を越後から関東に送って欲しいと書き送っているのである。

 この「新さう」は、男性の人名ではなく、「新造」(新妻)の可能性が高い。朱印状の文章は、謙信の正室を示しているようにも読める。

 同年3月、謙信は鎌倉で上杉憲政から家督を譲られたばかりだった。それまで「長尾景虎」を名乗っていた謙信は、ここに上杉の名字を授かったのだ。

 ただ、憲政と謙信は家族関係を結んでおらず、この家督相続そのものからして急に決定された予定外の事件だった。関東の諸将に強く意見されて、やむなく受け入れた相続なのである(こちらも『謙信越山』に詳しい)。

 そこで謙信は、上杉一族となった既成事実を補強するべく、越後にいた憲政の娘を正室に迎え入れるという手続きを踏もうとして、この朱印状を発したと考えられるのである。

大名の原則は政略結婚

 このように謙信にも妻帯を考えていた形跡が見られる。

 そもそも一国の大名が妻帯しないなど、大変な異常事態である。大名は、自分のためだけでなく、家臣の子孫繁栄のためにも後継体制を整える必要がある。謙信はそんなことを考えていなかったと言われるが、国政に関することなので、謙信個人が何も考えずに独身を通そうとしても、側近や重臣たちが縁談を勧めないわけがない。

 武家社会では政略結婚がフォーマルで、自由意志で決定されるものではなかった。

 謙信が家臣たちの声に耳を傾けなかったことも考えにくい。

 例えば、この2年後の永禄6年(1563)、上杉軍が敵地で前進か撤退かで議論が分かれた時、謙信は「若年之者共」の主戦論を受け入れて、騎西城を攻めることに決している。謙信は一部のイメージと違って、独断専行ではなく、家臣の意見をよく聞く武将だったのだ。したがって、縁談の話を「俺の趣味に合わない」などと個人の性的指向を理由に断り続けるとは考えにくい。

 先述した「新さう」だが、謙信はこのあとすぐ勃発した川中島合戦で、縁談どころではなくなってしまう。しかも関東では味方の離反が相次ぎ始めていた。もはやお祝い事を成就させる空気ではなくなっていた。謙信の結婚は立ち消えになったと考えられる。