夜中に中朝国境付近で密かに実施されるというマツタケのディールまでは、まだ10時間ほど時間があった。待ち合わせ場所を確認し、8時間後に再集合ということで、キムさんと男とはいったん別れた。
5年前に脱北した女性に面会
筆者はその間延吉市内に戻り、前に約束していた通りある喫茶店の個室に入った。
朝鮮族の知人の紹介で、5年前に北朝鮮から中国に、人身売買を通じて脱北してきたという40歳前後の女性に、一対一で話をする機会を得たのだ。
この女性は平壌近郊の出身で、肝臓の病気を抱える。心臓も悪い。本来であれば、定期的に病院に通わないと命に問題が出るほど、心身ともに脆弱になっていた。
自らの中国語と朝鮮語を含め、コミュニケーションを取りうるすべての手段を使って、彼女の心境に迫った。
加藤:なぜ脱北しようと決心したんですか?
決して簡単な選択ではなかったはずです。北朝鮮、中国、どちらのサイドでも見つかったら取り返しのつかないことになることは、ご存じだったはずです。
女性:本国にいた時、周りで多くの餓死者が出るのをこの目で見てきました。自分の夫も餓死しました。夫は毎日工場へ仕事に行っていましたが、会社は給料を全く払ってくれなかった。
国はお金はおろか、食料すらくれなかった。毎日腐りかけたトウモロコシで作ったお粥を食べるだけでした。1日1食です。生まれたばかりの子供が飢え死に寸前になったところで、脱北を意識しました。その頃、夫はすでに亡くなっていました。
飢え死にと背中合わせの日々
加藤:北朝鮮という国家の国民は、なぜ貧しいのでしょう。食べることすらままならないのは、どうしてだと思いますか?
特に中国に来られてから、どうお考えになりますか?
女性:祖国が貧しいのは、生産できない、土地がない、山ばかりだからだと思います。平壌は少しは都会かもしれませんが、私の実家も含めて、ほとんどの場所はとても貧しい。
とにかく、食べるものがないんです。食料がないんです。飢え死にするしかないんです。特に、1997~98年の頃はひどかったです。毎日たくさんのヒトが飢え死にしていくのを、目の辺りにしました。
祖国にいた時も、中国の商人は目にしたことがあります。常にいろいろなモノを持ったり、運んだりしているようで、裕福だなと感じました。私たちとは住む世界が違うと思いながら、横目で眺めていました。