渋沢栄一の肖像画が新紙幣に用いられることが決まった。政府・日銀による紙幣一新の発表直後から、『現代語訳 論語と算盤』を出版する筑摩書房へは、書店からの問い合わせが相次いでいるという。日本資本主義の父が生涯を通じて貫いた経営哲学の裏にあった『論語』の考え方と、そこから導かれた貨幣論を、同書を基に改めてひも解いてみよう。(JBpress)

(※)本稿は『現代語訳 論語と算盤』(渋沢栄一著、守屋淳訳、ちくま新書)の一部を抜粋・再編集したものです。

「士魂商才」と『論語』

 昔、菅原道真は「和魂漢才」(日本独自の精神と中国の学問をあわせ持つ)ということをいった。これに対してわたしは、つねに「士魂商才」(武士の精神と、商人の才覚とをあわせ持つ)ということを提唱している。

 人の世の中で自立していくためには、武士のような精神が必要であることはいうまでもない。しかし武士のような精神ばかりに偏って「商才」がなければ、経済の上からも自滅を招くようになる。だから「士魂」とともに「商才」がなければならない。

 その「士魂」を、書物を使って養うという場合いろいろな本があるが、やはり『論語』がもっとも「士魂」養成の根底になるものだと思う。では「商才」の方はどうかというと、こちらも『論語』で充分養えるのだ。道徳を扱った書物と「商才」とは何の関係もないようであるけれども、「商才」というものも、もともと道徳を根底としている。

 不道徳やうそ、外面ばかりで中身のない「商才」など、決して本当の「商才」ではない。そんなのはせいぜい、つまらない才能や、頭がちょっと回る程度でしかないのだ。このように「商才」と道徳とが離れられないものだとすれば、道徳の書である『論語』によって「商才」も養えるわけである。

『論語』を手に、実業家へ転身

渋沢栄一の肖像写真(出所:Wikipedia

 また世の中を渡っていくのは、とてもむずかしいことではあるけれども、『論語』をよく読んで味わうようにすれば、大きなヒントも得られるものである。だからわたしは、普段から孔子の教えを尊敬し、信ずると同時に、『論語』を社会で生きていくための絶対の教えとして、常に自分の傍から離したことはない。

 1873年に官僚を辞めて、もともと希望していた実業界に入ることになってから、『論語』に対して特別の関係ができた。初めて商売人になるという時、ふと感じたのが、「これからは、いよいよわずかな利益をあげながら、社会で生きていかなければならない。そこでは志をいかに持つべきなのだろう」ということだった。