南京の街をランタンでライトアップ

ライトアップされた南京明城(2019年1月28日撮影)。(c)CNS/泱波〔AFPBB News

 南京攻略戦において「大虐殺」があったならば、時期、場所、数値、内容等はおおむね確定するはずであるが、識者の間でもまちまちで、「存在の確認」は必ずしも明確でない。

 ここで「内容等」というのは、軍人と一般市民の別、便衣兵・敗残兵や捕虜の取り扱い、強姦・略奪・放火などの通常犯罪と残虐な殺戮の区別、そして何よりも「虐殺」の定義などである。

 月刊誌『諸君!』が、南京事件を論評している大学教授やジャーナリスト、歴史研究家など23人に、17項目についてアンケートを行い、回答結果は同誌2001年2月号に掲載した。

 質問項目にも「被虐殺者の範囲について」や「『南京事件』における『虐殺』とは、どのようなものとお考えでしょうか。その定義をご教示ください」とあるくらいだ。

 「一般市民」の殺戮は、どの回答者も共通して「虐殺」としている。

 しかし、「捕虜」や「敗残兵」の処刑、軍服を脱ぎ捨て市民に成りすました「便衣兵」についての考え方、軍法会議の開催有無、指揮官の命令いかん、残虐かつ猟奇的な殺戮か否か、量的問題などによって、「虐殺」の範囲も定義も大幅に異なっている。

「南京大虐殺」の本義は何か

 福澤諭吉は『文明論之概略』で「議論の本義」について、本末(幹と枝葉)をしっかり区別して議論をしなければならないと説いている。

 「南京事件」についていうならば、戦争状態における「虐殺」とは、「非戦闘員を命令により殺戮すること」であろうが、捕虜や敗残兵・便衣兵については戦闘または反乱の意思の有無にかかわらず、当時の国際法に照らして違法か否かを純学問的に究明すべき問題であり、「虐殺」とは無関係である。

 また、事件が起きたとされる当時の状況がいかなるものであったか、すなわち「発端」となった南京における状況を資料に基づき突き止めることである。この場合、中国や第3国人の資料であることが重要である。

 発端を吟味することなく、蒋介石の国民党および同政府ならびに毛沢東の共産党および同政府、さらには親中・媚中派日本人が言いふらした小さな虚言が、辻褄合わせで膨らみ、「南京大虐殺」の大虚言となっていないだろうか、各種の資料から検証することである。

 その際、資料作成者の人脈や背景も吟味する必要がある。

 日本では便宜上、10万人から30万人以上とみる「大虐殺派」、数千人から2万人くらいとする「中間派」、ほぼゼロの「まぼろし派」に3分されている。

 しかし子細に見ると、事件の期間は南京陥落の(1937年)12月「13日以降、入城式の17日まで」の数日間から、上海戦後の「11月中旬の追撃開始以降、中華民国維新政府が成立する翌38年3月28日まで」と様々である。