西アフリカでもアメリカ大陸でも、コメ作りで大きな働きを果たしたのは、黒人男性ではなく、黒人女性でした。

 現在の大西洋貿易の研究では、新世界の物産としては砂糖がもっとも重要な品目でした。その生産の中心地はカリブ海諸島で、そこには圧倒的に男性の奴隷が送られていたのです。

 それと比較すると、サウスカロライナ州に送られる奴隷は女性も多かったのです。そして彼女たちが、コメの栽培に大きな役割を果たしたのでした。

 彼女たちは、どうすればコメ作りの生産性が上がるか、よく知っていました。たとえば、農閑期に田にどのような植物を植えておけば土地の生産性が上昇するか、といった知識まで持っていました。

 また彼女たちは、長いクワと短いクワを使用し、自分たちで田を耕していました。森林を切り拓いて農地を作る時にも、牛や馬の力を利用して土地を耕すことはありませんでした。そういうときでも、使うのは自分たちの力とクワのような簡単な農具だけです。これも、西アフリカの農業の手法を踏襲したのでしょう。

 このようにサウスカロライナ州のコメ生産で、黒人女性は大活躍しましたが、その作業自体は道具を使って人力で行うものでした。

 一方で、アメリカ国内、そしてヨーロッパでのコメの需要はどんどん高まっていきました。それとともに、「カロライナ・ゴールド」の人気も上昇します。

南北戦争で大打撃

 そんなカロライナ・ゴールドの運命を変えたのは、南北戦争(1861~1865年)でした。この戦争により、サウスカロライナのコメ・プランテーションは荒廃してしまいます。

 同時にこのころは、カリフォルニアでゴールドラッシュが始まっている時期でした。一攫千金を求めてアメリカに渡ってきた人の中には中国人も多く、この人々の食事のためにもコメの需要は増していました。

 そういう状況下で、コメ作りはルイジアナ州、アーカンソー州、テキサス州、さらにはカリフォルニア州にまで広がっていきます。これらの地域でのコメ作りは、次々と機械化され、大規模化していきました。これでは人力に頼るサウスカロライナのコメ作りは太刀打ちできません。また新たにコメ作りが根付いた地域では、栽培されるコメも、アフリカイネである「カロライナ・ゴールド」から、アジアイネのジャポニカ米が主流になっていきました。

 こうして、アメリカのコメ作りからアフリカイネは消滅し、その存在も長らく忘れ去られていました。

 しかし近年になり、アメリカ農務省でカロライナ・ゴールドの種籾が保管されている事実が判明したりするなど、その存在が再び日の目を見るようになってきました。

 またアフリカの地でも、アフリカの食糧事情改善のため、収穫量の増大が期待できるアフリカイネとアジアイネを交配させた品種「ネリカ」の育成が進められています。大きな時代のうねりを越え、アフリカイネが再び脚光を浴びる時代になってきたと言えるでしょう。