私は、これは正確ではないのではないかと思っています。

 というのも、西アフリカの人々のコメ作りの技術はヨーロッパでは知れ渡っていて、その技術を持った稲作地帯の奴隷は高値で取引されたと言われています。

 彼らは水路やあぜを作る技術、種をまき、苗を育て、田植え、草取り、稲刈り、そして脱穀する経験と技術をもっていました。

 ですから、新大陸に稲作が伝わった経緯は、決して偶発的に起こったものではなく、ヨーロッパの資本家、あるいは新大陸に連れていかれる黒人奴隷のいずれかが意図的に持ち込んだものと見たほうが正確だと思うのです。そのどちらが先だったのは分かりませんが、その後、イギリスのプレンテーション経営者は、その技術を持った奴隷を使って、アメリカ大陸でコメ・プランテーションの経営に乗り出します。

人気商品となったアフリカのコメ

 アフリカイネがアメリカ大陸に渡ったルートとしては、【地図3】にあるように、いくつかの道筋が考えられています。明確な史料からルートが判断できるものも、推測しかできないものもありますが、大まかに言えば、現在の合衆国からメキシコ、南米諸国に西アフリカからコメが導入されたことは間違いなく、しかもその導入は黒人奴隷の手によるものでした。彼らはイギリス船のみならず、ポルトガル船やオランダ船でも運ばれたと推測されます。

【地図3】西アフリカからのコメの輸送ルート(出典: Judith A. Carney,” The Role of African Rice and Slaves in the History of Rice Cultivation in the Americas”, Human Ecology, Vol. 26, No.4 (Dec., 1998),p.539をもとに作成)©アクアスピリット
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 アメリカで最初にコメ作りが根付いたのは、サウスカロライナでした。サウスカロライナの東側、大西洋に面した地域は湿地が多く、稲作には適した土地だったのです。

 コメ作りは、サウスカロライナの大きな産業となり、1600年代の終わりごろには、サウスカロライナの港町・チャールストン港からイギリスや西インドに向けてコメが輸出されるようになりました。

 サウスカロライナ産のコメは「カロライナ・ゴールド」と名付けられ、アメリカ本土とヨーロッパで人気を博するようになるのです。この特産品のお陰で、チャールストンはアメリカ有数の豊かな都市に成長したのです。

 このコメ作りに尽力したのは、アフリカから送り込まれた奴隷たちでした。しかもその主力は女性だったと考えられています。