マレーシアの国章(筆者撮影)

 中国が推し進める巨大経済圏構想「一帯一路」。マレーシアとの間でも鉄道建設など大型プロジェクトが計画されていた。だが、マレーシアのマハティール首相はプロジェクトを中止する方針を明らかにしたという。若かりし頃に「統一マレー国民組織」 (UMNO) 発足に関与し、英国からの独立運動に加わったマハティール首相は、大国に屈することを許さない。マレーシアという国を理解するために、第2次大戦後の英国との関係を振り返っておこう。(JBpress)

「アジア的価値観」を打ち出したマハティール氏

 マレーシアはマレー系と華人系とインド系が構成する多民族国家である。英国から独立したのは1957年8月31日。今年で独立62年目にあたり、人間でいえばすでに還暦を超えたことになる。

 先の総選挙では、建国62年目にして初めて野党が勝利し、政権交代が実現、日本での知名度の高いマハティール・ビン・モハマド氏が首相に返り咲くことになった。マハティール氏が政権与党の「統一マレー国民組織」(UMNO)を離党して作った新政党を中心とした野党連合が勝利したのである。現在93歳のマハティール氏は、国内外を精力的に飛び回っている。2年後には首相職は譲ると明言しているものの、「人生100年時代」の象徴といえるかもしれない。

 前回の22年の長期に及んだ首相時代(1981年~2003年)にマハティール氏が実行した政策は多い。「アジア的価値観」を打ち出して英米とは距離を置き、「ルック・イースト政策」で戦後日本の高度成長を実現した経済発展モデルを採用、「ブミプトラ政策」で経済的に弱者の立場にあったマレー人の地位向上を図った。

 1997年の「アジア通貨危機」では、経済危機に陥ったタイ、インドネシア、韓国とは異なり、IMFによる管理を拒否して独自の政策を採用。国際的批判を浴びながらも自力で危機を乗り切った。強権的な政治手法との批判もあったが、強力なリーダーシップによって、マレーシアを中進国に押し上げた功績は否定しようのない事実だ。

 だからこそ、自分が退いたあとのマレーシア政治経済の迷走ぶりには許せないという思いが強かったのだろう。日本人の立場から見ても、前政権の腐敗ぶりと闇の深さには、マレーシアはどうなってしまうのかという懸念を抱かざるを得なかった。マレーシア国民の多くもそう思っていたはずだ。だからこそ、政権交代が実現したのである。

 マハティール氏といえば、歯に衣着せぬ英国批判が有名である。マレーシアは、独立する前は大英帝国の植民地であった。大日本帝国による占領期間を経て独立に至った点は、前回のコラム(「ミャンマーのリゾートで『大日本帝国』に遭遇した」http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/53791)で取り上げたビルマ(=ミャンマー)と共通している。だが、独立に至るまでの道筋はビルマとは大きく異なっていた。