本来は、かつて横行していたそうした無法的事態を防止するために、歴史的にも国際的にも時間をかけながら、労働法体系は徐々に整備されてきた。ところが、その体系からも外れたさらなる弱者を救うために良かれと思って、たった1つの新規概念を導入したことが、結果的に仇となってしまった。つまり、労働弱者救済という制度導入時の理念が伝わらなかったことで、制度の文字面だけがどんどん都合よく解釈され変更され、長年かけて築いてきた「労働者の権利」という血と汗と涙の結晶が一瞬にして毀損されてしまったのである。さらにそれは“正規と非正規”という形で労働者階層をも分断してしまった。

労働は、「モノ」ではない!

 国際労働機関(ILO)の根本原則を確認したフィラデルフィア宣言冒頭の第1項(a)は、「labour is not a commodity」である。通常は「労働は、商品ではない」と訳されているが、私はあえて「労働は、モノではない」と訳したい。その方が、「commodity」という英単語が持つ「(容易に)売り買いできる(モノ)」的なニュアンスを日本語でも活かせると思うからだ。

 現実的に労働市場を考えた場合、労働力そのものにある種の“商品性”が存在すると考えるのは自然である。その商品性により当然値段(報酬)も上下するし、売買(雇用条件変更)もあり得る。民法では労働の商品的側面に重点が置かれているとも言われている。しかし、その商品としての労働力を提供する労働者は、感情や生活を持った「ヒト」であり、単純に右から左に動かせる「モノ」ではない。「労働」には明らかに「ヒト」としての側面が内包される。こうした「ヒト性(人間性、人格性)」を担保し、労働者の生命・健康・人格・精神・感情を保護するために労働法は生成・発展されてきた。

 リーマン・ショック後に社会問題化した「派遣切り」問題は、企業が非正規労働者を使いたい時に使い、切りたい時に切るという形で、都合よく「モノ」のように扱うことへの批判噴出であった。また最近では、日本の伝統的雇用慣習が非効率だとして、パーツとして労働者の適時的最適配置を促す「JOB型雇用」議論も盛んである。

 確かに労働者に感情や生活がなければ、その瞬間瞬間の最適化を図ることで、企業としても社会としても生産効率は上がるであろう。しかし実際には、労働者には感情が、生活が、一人の人間としての人生がある。少なくとも私は、自らの意に反して他人の都合で勝手に自分の人生を書き換えられたくはない。