今回の本題は別の内容なのですが 冒頭に高畑勲さんの訃報をお伺いして、心からの哀悼を記したいと思います。
ある件でご連絡を差し上げていたのですが、ご返信が滞りがちで心配していた矢先のことでした。本当に残念です。
高畑さんとの思い出や、彼の人生航路から考えることなど、追悼記事を準備したいと思っています。
さて、今回のトピックスですが、大学は新年度を迎え、予算のことなど雑務に追われているのですが、とみに基礎科学研究がやりにくい時代になっているのを痛感します。
私が学生だった30年ほど前には、大学の細々とした研究を大きく凌駕して、企業がR&D(研究開発)を牽引していたものです。
企業にも様々なプライドがあり、例えばソニーは江崎ダイオードでノーベル賞を出したとか、キヤノンは光技術では世界トップを牽引とか、そういった企業風土がありました。
いま上に名を挙げた会社がどうこう言うつもりはありません。一般論として昨今は、企業が基礎からR&Dを牽引しにくい時代になっている。
大学の立場からは、何とかそれをサポートし、またサポートしていただく面もある、産学が真の意味で協力しながら創造的に展開する「産学協創」を進めたいと考えています。
しかし本稿ではそのような応用に近い面ではなく、もっと基礎的な学術について、本質的な研究を進めることの意味を考えてみたいと思います。
軍事研究が科学を指導した時期
ここ10年間ほど、毎年10月頃になると、ノーベル賞関連のコラムを書いています。ここでは賞などというものはしょせん一過性のもので、取っても取らなくても本質的な仕事をしていればそれが一番、というのが基本的なスタンスになっている。
アインシュタインやシュレーディンガーの仕事は本当にすばらしい。
しかし、エンジニアであるエジソンやテスラ、基礎科学に貢献がある人であればフォン・ノイマンでもフリーマンダイソンでもノーベル賞には縁がないながら、人類の発展に圧倒的に貢献した大科学者、大技術者たちがいます。
(ここに名を挙げた人は、1923年生まれのダイソンのみ、90代の高齢でいまだ存命ですからもらう可能性がゼロではありません)