今年2月に中国東北地方で気になる話を耳にした。ダライ・ラマがその転生先をモンゴルだと言っているという噂である。

ダライ・ラマの称号はモンゴル王が与えたもの

アグワン・ドルジエフの生まれた故郷に建てられたアツァガット寺院

 モンゴルとチベット、あまりが想像つかないかもしれないが、中世以降、この両地域にはかなり密接な結びつきがあった。

 何より、ダライ・ラマという称号自体が、16世紀に活躍したモンゴルの王アルタン・ハーンより第3代ダライ・ラマとなる、ソナム・ギャツォに贈られたものであった。

 現在の国家元首としての地位は、ダライ・ラマ5世時代の西モンゴルのホショート出身のグーシ・ハーンの活躍と熱心な信者であった彼の領土の寄進によって確立されたものであることがその証明となろう。

 もっとも、「ダライ・ラマ」という名称については、ソナム・ギャツォの「ギャツォ」が「海」の意味であり、ただ単純に翻訳しただけであるとする向きもある。

 20世紀においても、モンゴル系の人々がチベットで活躍した。何と言っても有名なのはブリヤート人アグワン・ドルジエフ(1858~1938)であろう。

シベリアにある小さい村をわざわざ訪問した理由

 彼はダライ・ラマ13世の教育係を請け負った者の1人であり、19世紀の終わりから20世紀初めにかけて、チベットを巡る英国とロシアの駆け引きにおいて、ロシアとチベットとの交渉の橋渡し役として重要な役割を担った人物としても有名である。

 1991年、ダライ・ラマはアグワン・ドルジエフの生まれ故郷であるシベリアにある小さな村、アツァガットをわざわざ訪れている。 

 英国がチベットと不平等な条約を結び、それだけに飽き足らず、1904年、ヤングハズバンド率いる英国軍がチベットの首都ラサまで進出した際、その動きをいち早く察知し、青海を抜けモンゴルまでダライ・ラマを亡命させた張本人でもある。

 モンゴルを経て、青海、甘粛やチベットに仏教を納めるため渡ったブリヤート人は彼だけではない。