毎年この時期になると、「カー・オブ・ザ・イヤー決定!」というニュースがメディアの片隅を賑わす。

 しかし、こうした「イヤーカー」選びイベントは、今となってはその役割を自ら放棄した状況を続けている。したがって、黙殺していただいてかまわない。

 かつて日本でこの催しを立ち上げた出版社の中で事務方を担当し、その後、自らも選考委員に名を連ねたことのある者として、今回はその内情を語っておきたい。「技術立国論」としては枝葉末節の話ではあるけれども、これもまた日本的な事象の一例、ということで。

元々は「年男」「年女」を選ぶ内輪のお祭りだった

 元々日本で「カー・オブ・ザ・イヤー」というタイトルを与えるクルマを1年に1つだけ選ぼう、という催しを始めたのは、今はなき「モーターファン」誌(1995年休刊)であった。

 その第1回は70年。この年の秋、東京モーターショーのシーズンまでに出た新型車を選考の対象とし、年が改まる頃までに決定・発表するので「1970-1971年次」とする、というのも、この最初の「イヤーカー選び」からの決まりごとだ。

 当時は、モーターファン誌の「ロードテスト」(当時としては相当に緻密かつ広範な計測項目を網羅していた)を考案・実施していた大学の教授陣、そして執筆者の方々が選考にあたり、最終選考会議では投票の前に応援演説あり、討論ありで、和気あいあいと進められていたものである。

 私自身は、その始まりから10年近く経とうという時期に、新米編集者として会議の裏方として採点の計算やら何やらのお手伝いをするところから関わりが始まった。当時の最終選考会議の会場は、まもなく姿を消す赤坂プリンスホテル旧館の一室が定例だった。

 その当時、選考委員のリーダー格でもあった東京大学の平尾収教授が言われたことが今でも記憶に残っている。

 「これはね、毎年いろいろなクルマに触れる機会がある我々が、言うならば『年男』『年女』を選ぶ、内輪の『お祭り』なんだよ」

 そして、平尾先生発案の選考方法が「プラスマイナス5点法」。

 単純に考えれば、「年男選びは選考委員が各自1票を投じて、その票数が最も多いものに決めればいいのでは」となる。しかし、単記1票方式では、人々と社会がクルマに求める多様な価値観が反映されにくい。