最古の記録は“失敗”だった日本の養蜂

養蜂とはちみつの過去・現在・未来(前篇)

2016.09.16(Fri) 漆原 次郎
筆者プロフィール&コラム概要

 江戸時代には養蜂の名所もおこった。紀州の熊野はその1つで、1799(寛政11)年刊の『日本山海名産図会』では、「凡(およそ)蜜を醸する所諸国皆有。中にも紀州熊野を第一とす」という記述とともに、軒下に樽や箱を吊るしていた養蜂の絵が描かれている。また、熊野に次ぐ養蜂地として芸州(現在の広島県西部)が挙げられ、他にも勢州(三重県北中部)、尾州(愛知県西部)、土州(高知県)など多くの地名が連なっている。

『日本山海名産図会』巻二のうち「熊野 蜜蜂」。
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 一方で、九州と朝鮮の中間にある対馬には、はるか昔から養蜂の歴史があったとされる。江戸時代中期の儒学者だった陶山訥庵(1657-1732)は著書『津嶋紀畧乾』に、継体天皇(在位507-531)の頃、太田宿称が山林から巣を取って飼育する方法を村人に教えたと記している。対馬には丸太をくりぬいた「蜂洞」を置いてミツバチを飼養する伝統的な養蜂の方法がある。

近代式養蜂への大転換はかられる

 その後、日本の養蜂は大転換期を迎えることになる。明治時代以降、日本にセイヨウミツバチや西洋式養蜂技術が移入されたのである。1877(明治10)年には、政府がセイヨウミツバチの試験的飼育を、東京・内藤新宿(いまの新宿御苑の辺り)の勧農局試験場で始めた。

 西洋式養蜂が移入された背景には、世界での養蜂用具のイノベーションと、日本の産業近代化への潮流がある。19世紀半ば、米国のロレンゾ・ラングストロスが可動枠式巣箱を、またドイツのヨハネス・メーリングが人工巣礎を、またオーストリアのメイヤー・フォン・ルシュカが採蜜用の遠心分離器を発明あるいは考案し、養蜂の効率性は飛躍的に高まっていた。そうした中、日本の新政府は、産業近代化をはかる一環として、米国からラングストロス式巣箱とともに、繁殖力やはちみつ生産力の高いイタリア種のセイヨウミツバチを導入したのだった。

 ただし、内藤新宿での試験的飼育では、良い結果を得られたわけではなかった。以後、セイヨウミツバチ養蜂の試験地は、勧農局試験場出身者が転出した小笠原諸島へと移った。そして小笠原から全国各地へ近代的養蜂技術が広まっていったのである。

 “転地養蜂家”も現れた。ミツバチが蜜源とする各種の花の咲く時期に合わせて、養蜂場所を転々と移動していく人たちだ。いまも転地養蜂家は国内に1000人ほどいる。

日本における現代の養蜂のようす。基本的には、明治時代に移入された近代養蜂が受け継がれている。
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1975年生まれ。神奈川県出身。出版社で8年にわたり理工書の編集をしたあと、フリーランス記者に。科学誌や経済誌などに、医学・医療分野を含む科学技術関連の記事を寄稿。日本科学技術ジャーナリスト会議理事。著書に『日産 驚異の会議』(東洋経済新報社)、『原発と次世代エネルギーの未来がわかる本』(洋泉社)、『模倣品対策の新時代』(発明協会)など。


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