ミシェル米大統領夫人、両陛下と懇談

皇居で、皇后陛下(右)が見守る中、天皇陛下(中)に手を差し出すミシェル・オバマ米大統領夫人(2015年3月19日撮影)〔AFPBB News

 1935年と言えば今から81年前になりますから、昔話と思われる方が多いかもしれません。

 でも1933年生まれの明仁天皇にとっては、いまだ物心つく以前とはいえ、12月で83歳を迎える今日まで直結する、ある出来事が起きた年に当たります。

 「天皇機関説事件」。

 東京帝国大学名誉教授で貴族院議員であった美濃部達吉が社会的に非難の的となり、そののち2.26事件の動乱を経て、日本が翼賛体制と無謀な戦争に突入して行った、1つの道標となった出来事でした。

 2016年8月8日の「天皇放送」を読み解く重要なカギの1つが、ここにあります。

 1988年、平成に入って、元最高裁判事、前東宮職参与の團藤重光・東京大学法学部名誉教授は、天皇の相談役となるべく宮内庁参与に就任します。

 当時75歳だった團藤教授にとっては、1935年の「天皇機関説事件」も36年の「2.26事件」も、法律を修めた一青年として直面した現実で、その後のGHQとの交渉などで襟を正した毅然たる態度を一貫する大きなきっかけになったのでした。

目に見えない「機関」の落とし穴

 1935年、22歳の團藤教授は東京帝国大学法学部を首席で卒業、直ちに助手に就任し、小野清一郎教授の下、いわゆる「新古典的」な刑法(「後期旧派刑法学」)の研究に着手したところでした。

 そこで発生した天皇機関説事件は「トンでもないモノだった」と團藤先生は言われます。

 「うちの近くに住んでいた菊池という軍人の代議士がね、美濃部先生を非難するひどい演説をした。それが新聞にも載って、それはひどいことになったものだった・・・」

 團藤先生には、美濃部教授は歴史上の人物ではなく、直接教えを受けた教授の1人として等身大の記憶があります。

 「本郷通りを歩いていたら美濃部先生が向かいから来られて、帽子をヒョッと、こう、上げてね、会釈される、そのしぐさがなんとも上品でね・・・」

 そんな美濃部教授が攻撃を受けた「天皇機関説」とは、どのようなものだったのでしょうか?