河野談話の失敗を繰り返すな
今回の日韓両国の一連の対応を見ていると、1993年の河野談話を思い出す。あのときも最初はそれほど大事件になるとは思わず、外務省は「政府の関与」を認めて遺憾の意を表明すればすむと考えていた。
ところが韓国政府が粘り、「強制という意味の表現があれば賠償は求めない」と言ってきたため、外務省は河野談話に、慰安婦が「本人の意思に反して集められた事例」に「官憲等が直接加担」したという玉虫色の表現を入れた。これを韓国が「国が強制連行した」と解釈して国家賠償を求めてきたのだ。
今回の世界遺産でも気になるのは、外務省が「多くの朝鮮人が意に反して苛酷な労働条件で強制的に労働させられたことを理解させる措置」を取ると約束したことだ。これはユネスコの議事録では、次のようになっている。
Japan is prepared to take measures that allow an understanding that there were a large number of Koreans and others who were brought against their will and forced to work under harsh conditions in the 1940s at some of the sites
菅官房長官はこれを「強制労働ではない」と説明したが、"forced to work"という表現は強制労働と解釈されてもしょうがない。それを「理解させる措置」とは具体的に何かはっきりしないが、一部の報道では「情報センターをつくる」とも伝えられている。
徴用工についての歴史的な資料を集めた施設が想定されているのかもしれないが、これは問題を再燃させるおそれが強い。村山内閣のつくった「アジア女性基金」では関連資料を集めたウェブサイトをつくったが、これが日本の「有罪の証拠」と世界に受け止められた。
海外メディアも含めて、日韓以外の国民は慰安婦にも徴用工にも関心をもっていないので、ニュースの見出しぐらいしか読まない。外務省がいくら高度な「霞が関文学」を駆使して「徴用工は強制労働ではない」と国内向けに説明しても、例えば朝鮮日報は「世界遺産対立:日本、国際社会で初めて強制労働認める」と大見出しを掲げた。
これから三菱重工のような徴用工訴訟が、韓国で頻発するおそれが強い。単なる民間の娼婦だった慰安婦とは異なり、徴用工の一部は軍と雇用関係にあったので、政府の責任が追及される可能性もある。
外交レベルでは合意が成立しても、韓国マスコミや一般大衆の感情が暴走し始めると、政府にもコントロールがきかなくなり、結局は韓国政府が前言を翻して新たな賠償を求める――それが河野談話の教訓である。安倍政権がその轍を踏まないことを願わずにはいられない。