「本流トヨタ方式の土台にある哲学」について、「(その1)人間性尊重」「(その2)諸行無常」「(その3)共存共栄」「(その4)現地現物」という4項目に分けて説明しています。

 企業を取り巻く利害関係者との関係をあらわす「(その3)共存共栄」は「本流トヨタ方式」の根幹を成す考え方であり、行動規範でもあります。前回まで、サプライヤーとの共存共栄、工場新設時の地元住民との共存共栄のあり方などについてお話ししてきました。

 今回から、トヨタが初めて海外に工場を設立した時の出来事についてお話しします。具体的には、生産の海外移転と共に実施された、トヨタ自動車工業(トヨタ自工)とトヨタ自動車販売(トヨタ自販)の統合という大がかりな組織改革についてです。

 まず今回は、戦後、トヨタが自工と自販の両輪体制で発展していった様子をお話ししましょう。

「販売の神様」と言われたトヨタ自販の初代社長

 戦後の混乱期、日本ではどの会社も厳しい状況に追い込まれますが、トヨタも例外ではなく、1950年に倒産の危機を迎えました。

 この時、トヨタは銀行から融資を受けるにあたって、ある条件を提示されました。まず、従業員を2割強解雇すること。加えて資金の有効活用を図るために、膨大な営業資金を必要とする販売部門と、多大な研究開発費、設備投資を必要とする製造・技術部門を切り離すことでした。

 その結果、トヨタ自動車工業と、トヨタ自動車販売の2社に分離することとなりました。

 トヨタ自販の初代社長は神谷正太郎氏でした。ゼネラル・モーターズ(GM)の日本法人でナンバー2だった人ですが、創業当初、豊田喜一郎氏にスカウトされ、「販売のことは一切お任せする」と託されてトヨタ車の販売網構築に邁進したのでした。

 トヨタ自販発足と同時に、神谷氏は戦争でズタズタになった販売網を再構築し、将来のモータリゼーションに備え、業界に先駆けて着々と手を打っていきました。

 その1つとして、地元の資産家に自動車販売業に参入してもらい、1県に多店のフランチャイズを展開し「マルチチャンネル」化することがありました。クラウンなどの高級車を扱う「トヨタ店」、コロナなどの中間クラスを扱う「トヨペット店」、大衆車を扱う「カローラ店」などのチャンネルを次々と立ち上げていき、最終的には5チャンネル体制に持っていきました。

 さらに顧客が自動車を買いやすいように、「定価販売」や「月賦販売」などの新方式を他社に先駆けて展開していきました。

 また、運転免許を持つ人が増えないと自動車は売れません。そこで自動車運転の教習所に積極的に投資しました。さらに、顧客が安心して車に乗れるように、自動車整備士の養成学校も作っていきました。