1945年2月のヤルタ会談から始まった冷戦は、1989年の米ソ首脳会談における「冷戦終結宣言」により終結し、1991年のソ連消滅により名実ともに終焉した。

 これに伴い世界は、東西両陣営対立の時代から伝統的脅威および非伝統的脅威が混在する予測困難な安全保障環境の時代へ、そして時を同じくして起こっていた情報通信技術の急速な発達により機械化時代から情報化時代へ、さらに社会的、経済的、文化的活動におけるグローバル化の時代へと変化していった。

ヤルタ会談に臨む右から英国のウィンストン・チャーチル首相、米国のフランクリン・ルーズベルト大統領、ロシアのヨシフ・スターリン共産党書記長(肩書きはいずれも当時、ウィキペディアより)

 欧米先進国は、冷戦終結後におけるこのような変化に対応して新たな戦略・政策を確立し、変化への適応を図っていった。

 一方、我が国は昭和27(1952)年の対日講和条約発効により主権を回復して以降これまでの間、「国家安全保障戦略」と称する文書を制定したことはなく、昭和32(1957)年に制定した「国防の基本方針」をそれに代わるものとして防衛戦略ならびに防衛体制整備の基本に置いてきた。

 その間、政府は必要の都度第三者機関である安全保障に関する諮問委員会を設置して、その答申をもって「国防の基本方針」を補完し、防衛体制整備を実施してきた。

 しかしながら冷戦終結後から今日に至る国際情勢や防衛体制整備を取り巻く環境は、昭和32年当時とは著しく異なってきており、現状に即しかつ長期を見通した確固とした戦略を確立する必要があるという認識の下に、安倍晋三内閣は平成25(2013)年12月4日に「安全保障会議」を「国家安全保障会議」に改組再編した後、同年12月17日に「国家安全保障戦略」を閣議決定し公表した。

 これにより国家の基本理念を示し、国益と国家安全保障の目標を定義し、安全保障環境とその課題を見積もり、その環境下で国益と国家目標達成のための戦略についての指針を示すとともに国家安全保障関連分野の政策に指針を与えた。

 さらに政府は、平成26(2014)年4月1日に「防衛装備移転三原則」を閣議決定し公表した。

 これは「国家安全保障戦略」に則って、国家安全保障目標および国益を達成するための手段の1つとして防衛装備移転を捉え、これに大義名分を与えるとともに、健全で競争力のある防衛生産・技術基盤を国内に維持することが防衛の成否を左右する重要な要素であり国の存立の基盤であるという認識の下に、防衛装備移転を厳正な管理の下に実施することを示したものである。

 これに加えて政府は、平成26年7月1日に「集団的自衛権の行使を容認する」とする閣議決定を行った。

 以下、冷戦終結後における欧米先進国の動向について概観し、それと対比しつつ我が国の対応について論じる。

冷戦終結後における欧米先進国の防衛体制整備の動向

 冷戦終結による安全保障環境の変化に直面して、欧米先進国(ここでは米国、英国およびスウェーデンの例を取り上げる)は防衛体制整備をどのように適応させていったかについて概観する。

 米国においては安全保障上の重要な転換点となった冷戦の終結にあたって、ジョージ・W・ブッシュ政権は従来の「大規模核戦争抑止戦略」および「ソ連封じ込め戦略」から「地域紛争対処戦略」へ転換するとして、「基盤戦力構想」を1991年9月に発表した。

 その後に誕生したビル・クリントン政権は、冷戦後の国防所要と計画に関する積み上げ方式による検討を行い、「ボトムアップレビュー」(Bottom-Up Review: 以下BUR)を1993年に策定した。

 BURに基づく本格的な防衛体制整備は、1995年に策定された「関与と拡大に関する国家安全保障戦略」によって本格的にスタートした。この国家安全保障戦略で、“グローバルかつ単純な冷戦間の米ソ2極対決と異なり、冷戦終結後の予測困難で複雑かつ多様な事態に対して、米国は国益に照らして柔軟かつ効果的に対処する”として、関与の事態と軍隊の投入規模及び投入条件を具体的に定めた。

 また、この時期における湾岸戦争および冷戦終結による戦略の転換や科学技術の進展に伴って、陸海空軍戦力を統合して運用することの重要性が強く認識されるようになってきたことから、統合作戦戦略ならびにその実施に当たり必要とする戦力と体制整備の基本的な考え方を示すため、統合参謀本部議長が、BURを受けて(その後は「4年毎の防衛見直し」:以下QDRを受けて)「統合ビジョン」を策定し、各軍の戦力運用並びにそのための戦力整備と体制整備について方向性と整合性を与えた。