カンボジアには本屋らしい本屋がない。プノンペンで「ブックセンター」というところは、たいがい文房具が売られていて、ほんの少し辞書や教科書の類が隅のほうに置かれているだけだ。一番大きな本屋は英語の書籍の本屋で、すべて輸入品のため恐ろしく値段が高い。

文化破壊の後遺症が残るカンボジア

市場で中古の洋服とともに売られるコピー本。主に子供向けのもの、旅行ガイド、簡単なクメール語の辞書といったもので小説などはない(写真提供:筆者、以下同)

 クメール語の書籍といえば、コピーを製本したものが、なぜか市場の店先に並ぶ。首都プノンペンですらこの調子である。地方で本など手に入れるのは至難の業だ。

 なぜこんなことになっているのかというと、1970年代のポル・ポト政権下で、文化的事業や文化的遺産は「ブルジョワジー」的なものとして破壊され尽くされてしまったからである。

 だから、この国にはまだ出版文化と呼べるものが本格的に復興していない。つまり、人びとは、1970年代以来、自国で出版された本を手にする機会がほとんどないという状況に置かれている。

 学校で使われている教科書ですらコピーである。恐らくカンボジアの人が目にしている「書籍」とは、この教科書以外は、非常に限られたものであろう。

 実際、私の任務先である国営テレビ局の20代の局員(一流大学卒)に、「本を読んだことがあるか?」と聞いたら、「教科書以外読んだことがないし、小説は読んだことがない。おじいさんから昔話を聞いたことがあるだけだ」と言っていた。

 また、ある一流大学の授業を取材したことがあるが、これも教科書は英語のものを使用して、英語で授業していた。つまり、自国の言語で物語というものを読んだこともなく、自国の言語で学術的な理解をすることもなく成長するのである。

 これをどう考えればいいのだろうと、この国にやってきてこうした事実を知ってからずっと私は考えている。そして、カンボジアにおけるこうした「文化的欠落」が、映像文化にも大きな影響を与えているのは、おそらく間違いないと思う。

 たとえば、前回の記事(『8Kスーパーハイビジョンとタイムコードの”格差”』)にも書いたのだが、カンボジアのテレビ番組は、国営テレビ局を始め、ほぼすべてクメール語がわからないと理解できないような映像のオンパレードである。