2011年、福島の原発が事故を起こした直後の3月27日、私の住むバーデン=ヴュルテンベルク州で州議会選挙が行われ、緑の党が第2党に踊り出し、第3党のSPD(社民党)との連立政権が誕生した。

 そもそもバーデン=ヴュルテンベルクは、戦後一貫して中道保守CDU(キリスト教民主同盟)が制覇していた州だった。バイエルンと並んで、産業が盛んで、景気がよく、秩序は整い、学力も高いという模範的な州だ。

脱原発のエネルギー政策に難渋するドイツ

反原発の「緑の党」、支持率2位に躍進 ドイツ

アンゲラ・メルケル首相(左)と緑の党のクラウディア・ロート共同代表を風刺したポスター(ベルリン、2011年3月31日撮影) ©AFP/JOHANNES EISELE〔AFPBB News

 ところが11年3月、突然、CDUは多くの票を失った。得票数はなおも最高だったが、緑の党とSPDに連立されると、すでに敵わなかった。かくしてバーデン=ヴュルテンベルク州は緑の党が政権を握り、その余震はベルリンにまで伝わった。

 何故そんなことが起こったか。CDUが原発を擁護していたからだ。一方、緑の党とSPDは反原発の旗振り役だった。

 ドイツ国民は、福島原発の事故の後、反原発で一致団結していた。その事故のニュースが、まだ生々しく伝えられていた頃のこと、緑の党とSPDの急伸は当然の帰結と言えた。特に緑の党は、「それ見たことか」と言わんばかりの高揚した気分を隠すことさえしなかった。

 バーデン=ヴュルテンベルクでのCDUの敗退は、メルケル首相の君臨するベルリンに強い衝撃を与えた。このあと、CDUが突然方向修正をして、エネルギー政策の舵を大きく脱原発に切り替えたのは、偶然のことではない。

 CDUは福島原発のせいで、突然、瀬戸際に立たされた。2012年、13年と、まだ重要な州議会選挙が続く。それどころか、13年9月には、総選挙が控えていたのである。

 ドイツが脱原発の方針を定めたのは、実は2000年のことだ。その11年後、福島原発の事故を機に、脱原発のリミットが2022年に繰り上げられ、それは超党の不動の意思となった。

 以来、すでに3年が過ぎた。しかし、脱原発に基づくドイツのエネルギー政策は、決してうまくいっていない。去年12月に発足した第3期メルケル政権はSPDとの大連立になり、SPDの党首ガブリエル氏が、副首相兼、エネルギー・産業経済大臣に就任した。