69回目の8月15日、みなさんはどのように過ごされましたでしょうか?
特に異常気象の影響で被災された方には、心からお見舞いを申し上げます。戦争を繰り返すべきではもちろんありませんが、戦争を思うことを許されている状況に、まず感謝したいと思います。戦災は明確な人災で避けることができます。翻って避けることができない天災も存在します。
では3.11はどうだったのでしょうか?
端的に言えば複合被災であったと言わねばならないでしょう。地震や津波そのものは人間の意図を超えて発生するものです。が、それによる被害には、多くの人間に起因するファクターが関係しています。
この8月から9月にかけて、明らかな人災については調布市仙川町、東京アートミュージアムでアムステルダム・アンネ・フランク・ハウスとの「きけ、わだつみのこえ」の協働企画と9月7日の哲学熟議で準備しています。
「わだつみ」企画は演奏がありますので財団主催でチケットを準備していますが(こちらからアクセスしていただけます)哲学熟議は大学主催の公開行事として行いますので、建物の安全管理上、申し込みの手続きをしていただければご参加いただけます。お名前ご連絡先を明記の上、入場管理アドレスgakugeifu@yahoo.co.jpまでお申し込みください。
1通のメールで原則2人まで受け付けています(だれそれ他1人と言った表記は建物管理に用をなしませんので受け付けていません。お入りになる方のお名前とご連絡先をお送りいただければ、どなたでもフリーでご参加いただけます)。
いまここで考えたいのは、同じリスクに直面したとき、日本は果たして「人災」の面を極小にとどめることができる国だろうか、という観点です。
相違など本来するわけがない「見解」の相違
報道によれば8月9日、長崎市で開かれた安倍晋三首相と被爆5団体の会合で、自身も被爆者である長崎原爆遺族会の正林克記会長の「緊張緩和への政府の確かな取り組みさえあれば、火に油を注ぐような集団的自衛権は必要ないのでは」と質したのに対し、「丁寧に説明する努力をすることで必ず理解をいただけると思う」という、内容のない台詞でその場をやり過ごしたようです。
これは官僚答弁全体に言えることですが、一切意味のある言質を与えず、何も考えず何も与えず、というのらりくらりが、残念ながら日本においては政治の常道として100年以上続いてきた。そのパターナリズムは身につけている様子と思われました。