マーガレット・サッチャー英国元首相の回顧録に、「日本は安全保障を確保するために積極的に国際的な役割を果たそうとしないことについて、いつも欧米諸国政府の物笑いの種になっていた」という一節がある。
国連分担金などでは米国以外の国連常任理事国をひっくるめた額よりも多くを出資し、湾岸戦争では国民1人当たり1万円に相当する130億ドル(当時)を出してシュワルツコフ総司令官からは感謝された。
しかし、領土を回復したクウェートは感謝の意思を示さなかった。
安全保障で日本の常識が通用しなかった表れで、これ以上の放置は日本の致命傷になる。安倍晋三首相が「安全保障に関する政府決定の中で最も重い決定」(7月19日、長州「正論」懇話会における首相講演)と語ったのはこうした文脈においてしか理解できない。
政党維持の憲法論議でいいのか
集団的自衛権は国連加盟国に憲章で認められており、権利の保有と行使を分離して考えるような異常な国は日本以外にない。日本における国会論戦は中学生程度にも至らないものだから、中韓も自国のことは隠しても、日本の喧噪に口も出したくもなろう。
憲法が最高法規であることは98条に明記され、改正条項も96条にある。国家あっての憲法であり、国家の存続や日本の将来像にそぐわない状況をもたらすような条項等の改正を議論することは当然である。
昭和21(1946)年6月、吉田茂首相は自衛権について、「一切の軍備と交戦権を認めない(憲法9条2項の)結果、自衛権の発動としての戦争も、また交戦権も放棄した」と答弁し、集団的自衛権どころか個別的自衛権さえ否定していた。
これにかみついたのが野坂参三共産党委員長である。「自衛権を否定して、有事の際、日本の守りはどうするのか」と詰め寄り、朝日新聞共々、護憲どころか新憲法制定に反対していた。
政権担当者が民意を汲み、さらに国際情勢を勘案しながら時代に合うように法の解釈・運用を行うのは当たり前で、立憲主義に反するものではない。集団的自衛権の一部行使容認(爾後、「行使容認」とも略称する)は改憲できない中で安全を担保しようとするぎりぎりのものだ。
ともあれ、行使容認について与党協議・合意を経て閣議決定された。しかし、与野党間ばかりでなく与党間において、また自民党議員間においてもまだまだ意見の相違が見られる。何よりも国民の理解が得られていない。