今までもたびたび取り上げてきたテーマですが、しばらく公共性と有用性ということについて考えてみたいと思うのです。

 例えば、先週の哲学熟議で検討した「STAP捏造細胞」、税金を用いてあのような研究を進めるのも一種の「公共事業」つまり「公共性」が問われるものでしょう。

 ではSTAP細胞が「有用」か?

 直ちに役に立つかと問われれば、STAPはこの世に存在しませんから明らかにNOですが、iPS細胞のように、まだ技術が誕生したばかりのものについても即時の有用性があるかと問われれば「NO」というのが答えなのです。

「仕分け」と「無駄遣い」

 既に今は昔の観がありますが、民主党政権時代の「事業仕分け」で日本の学問や芸術は相当の痛手を被りました。

 「世界で一番速いコンピューター」に対して「なぜ2番目じゃいけないんですか」という愚にもつかないやり取りはマスコミの耳目を賑わしました。

 が、あの当時のやり取りが単に興味本位に消費され、日本国民全体のサイエンスリテラシーとかすりもしなかったのは、3.11以降の様々な展開、また特にSTAP捏造細胞詐欺事件の、現在も終わっていない恥ずかしい現状と、それを理解できない少なからざる日本国民の姿を、現在進行形で示し続けています。

 では翻って、自民党政権となり、大盤振る舞いで学問芸術に資金をばらまき、それで票を確保すれば万々歳か、と問われれば、冗談ではないと答えるしかありません。

 真っ当に研究する「価値」のあるテーマを選び、かつそれが「解決可能」であることが確認されたとき、公共の資金を投入する意味が初めて生まれる。まともな頭がついていればそう考えるべきだと私は思います。

 これは真っ当に実現する「価値」のある社会課題を選び、かつそれが「解決可能」であることが確認されたものを「政策」として立案し、公共の資金を投入する意味ある事業を実施していく、というのと全く同じことで、日本ではこういうマトモな公共事業の展開がありません。

 それがさらにクレージーに拡大して理化学研究所(理研)の利権などに結びついているわけです。

 では、改めて「無駄遣い」とは何なのでしょうか?