イスラム教スンニ派武装組織ISISが「イスラム国家」樹立を宣言した。発表の行われたウェブサイトには、イラク・シリア国境を破壊する映像もあり、既存の国境をまたぎ2国内に「設立された国家」は、その最高指導者をカリフとするという。

「民族の英雄」視されるガブリロ・プリンツィプ

オスマン帝国時代の雰囲気残るサラエボ市街

 時をほぼ同じくして、サラエボからは、ガブリロ・プリンツィプ像除幕式のニュースも入ってきている。

 ちょうど100年前となる1914年6月28日に、「オーストリア皇太子夫妻を暗殺したセルビア人青年」として、世界史の教科書に載る人物だ。

 第1次世界大戦のきっかけを作ったこの人物を「民族自決に身を捧げた」とするセルビア人の意思の表れだが、ユーゴ紛争戦犯として裁きを受けたスロボダン・ミロシェビッチやラドヴァン・カラジッチ同様、「民族の英雄」と考えるセルビア人は少なからずいるようだ。

 そんな「民族自決」がグローバルスタンダードとなるのは第1次世界大戦後、ウッドロウ・ウィルソン米国大統領が「14か条の平和原則」の中で提唱してからのこと。

 とは言いながら、独立の約束を反故にされた中東では、イラクが英国の、シリアがフランスの委任統治領となったことは、先週のコラムで詳述した通りである。

 戦いの火元となったバルカン半島は、長年、オーストリア・ハンガリー帝国とオスマン帝国が古来の地域大国を交え勢力争いを繰り広げてきた火薬庫。国境がたびたび変わる言語も宗教も多種多様な民族のるつぼだった。

 そんな地に、戦後、新たに民族を異にする南スラブ人たちが集まる合同国家が成立。1929年には、その名を「南スラブの国」たる「ユーゴスラビア」王国とした。

 しかし、旧セルビア王室が中心となる体制にクロアチア人が抵抗を示すなど、当初から「民族自決」の火種を内包していた。

 そして第2次世界大戦が勃発。ユーゴ王国はハンガリー、ルーマニア、ブルガリアといった近隣国同様、三国同盟入りした。しかし、親英派などがクーデターを決行。激怒したドイツの攻撃を受け、早々に降伏してしまう。