中台分断から60年の時を経て、初の包括的協定、中台経済協力枠組み協定(ECFA)が6月末締結された。経済が先、政治は後回しという、国連の椅子を失って以来、台湾が辿ってきた道の延長線上にあるものとも言えるが、疑心暗鬼の人も少なくないはずだ。

親密になる中国と台湾に一抹の寂しさ

 今、台湾の街を歩けば、日本風のファッションや漫画、J-POPといったサブカルチャーを謳歌する若者たちに出逢い、英語同様に「国語」北京語をしゃべることが格好良いとさえ言う。

 日本人にとっては台湾語の漢字の方が北京語の簡体文字より分かりやすいし、それなりに通じる日本語とともにあまり変わってほしくないが、もはやイデオロギーや独立可否議論などとは無縁の時代なのか、とも思ってしまう。

 細かな地域情勢など考えもしない欧米資本主義社会に生きる人々にとってみれば、中華民国の蒋介石そして国民党政権とは、共産主義の大陸・中華人民共和国に対する資本主義の牙城であり、自由への解放者とだけ思われていたかもしれない。

 しかし、その地が身近な日本人には、そこに本省人(台湾生まれ)と外省人(大陸生まれ)の相克という大問題があることは周知の事実であろう。

蒋介石の功績を記念して建てられた中正記念堂の巨大な門。後方には超高層ビル台北101も見える

 そんな台湾の首都、台北の人気観光スポットに中正記念堂がある。ぶらり散歩を楽しむには絶好の場所だが、蒋介石の功績をたたえ、国民党独裁下の1980年に造られたものである。

 「中正」というのは蒋介石の「名」にあたるもので、「介石」というのは実は「字(あざな)」と呼ばれる名前の別要素、世界的には「姓+字」の「蒋介石」で通用しているが、台湾では一般人同様に「姓+名」の「蒋中正」と呼ばれている。

 その中正記念堂は、初の非国民党政権、民進党総統・陳水扁が、間近に迫った選挙対策もあって2007年にいったん「台湾民主記念館」と改称する。

 しかし、その選挙で民進党があえなく大敗を喫すると、再度、国民党・馬英九現政権により元の名に戻されたというドタバタ劇があった。

 わずか20余年前まで40年間も続いていた戒厳令、国民党独裁のもたらした陰の部分はそう簡単には消えず、いまだに本省人と外省人の相互信頼が薄いことは否みようがない。

 優勢であるはずの大陸での国共内戦に敗れてやって来た、ある意味難民的立場とも言える外省人から圧政を受け辛苦をなめた本省人の姿は、台湾北端の港町基隆を舞台とした『悲情城市』(1987)で見ることができる。

 1945年の日本統治時代、日本語交じりの風景に始まるこの作品は、外省人の本省人に対する抑圧として知られる2・28事件から間もない1947年4月に大陸で生まれた外省人、ホウ・シャオシェン(侯孝賢)が監督している。