私は神奈川県茅ヶ崎市で育った。1965年生まれで、私が小学生の頃でも自家用車を所有している家庭はごくわずかであり、人々の移動手段はもっぱらバスと鉄道だった。茅ヶ崎駅には東海道線が停まり、相模線の始発駅でもある。つまり、私は国鉄を主要な交通手段としながら成長してきたわけだ。

 母方の祖父母が四谷で暮らしていたので、年始に家族そろって挨拶にうかがう時は東海道線に乗って東京駅まで行き、中央線快速に乗り換えて四ッ谷駅で降りる。片道1時間半ほどの行程で、往きはいいが、帰りは幼い妹たちが疲れてくる。しかも、父は四谷に残って祖父や伯父と囲碁に興じているので、私は兄として奮闘しなければならなかった。

 夕方の東京駅のホームで、私は湘南電車の車内整備が終わってドアが開くのを待ち構える。当時、東海道線を走っていた113系や115系は向かい合わせのクロスシートが基本だった。家族全員で座って帰るために、私は4人掛けのボックス席を確保しようとしていたわけだ。

 「プシュー」という空気を抜く音と共に開いたドアの隙間から車内に駆け込み、私は首尾よくボックス席を占領した。「ハル、ありがとう」と母に言われて、私は進行方向窓側の座席から夕闇に包まれてゆく景色を眺めた。

 ところが、そのまま茅ヶ崎駅まで座っていられることは滅多になかった。あとから乗って来たお年寄りが近くに立つと、「ハル」と母が呼ぶ。私は立ち上がり、妹たちが席を詰めて、通路側の席を1つ空ける。

 「坊ちゃん、ありがとう」とお年寄りにお礼を言われてもちっとも嬉しくない。そのうちに3人の妹たちは眠っていき、私は席を譲った相手が次の駅で降りればいいのにと思いながら列車に揺られているうちに茅ヶ崎駅まで立ちっぱなし、ということがよくあった。

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 北海道大学に進んでからは、帰省のたびに列車の中で一昼夜を過ごすのがならいになった。私が北大に在学していた1983年から89年頃は、上野駅と青森駅を結ぶ夜行の急行列車が何本も走っていた。東北本線を行く「八甲田」、常磐線を行く「十和田」、そして奥羽本線を行く「津軽」である。私は鉄道ファンではなかったが、いつも同じルートではつまらないので、3つのルートを行く夜行列車をかわりばんこに乗りながら北海道と関東を行き来した。