大規模なテロ事件が世界各地で相次いでいる。「ボコ・ハラム」の襲撃が続くナイジェリアでは100人以上が犠牲となり、イエメンでは軍施設を狙った爆弾テロや銃撃で約40人が死亡。パキスタンでは日曜礼拝のさなかキリスト教会を狙った自爆攻撃が80人あまりの命を奪い、イラクのサドルシティでは自爆攻撃で50人が死亡・・・。

ケニアのテロリスト「イスラム教徒は助けてやる」

ケニア襲撃事件、容疑者「白い未亡人」

ケニアで起きたテロには「白い未亡人」と呼ばれる英国籍の白人女性が容疑者の1人として浮上している〔AFPBB News

 そして、9月21日、ケニアの首都ナイロビの高級ショッピングモールで起きた惨劇の死者は60人以上。横たわる犠牲者や逃げ惑う人々の姿を映し出すニュース映像は衝撃的だった。

 モール内に立てこもる犯人グループに治安部隊が攻撃を仕かけ、ケニア政府が建物の制圧を発表したのは24日になってからのこと。

 順調に経済成長を続けるケニアだが、白昼堂々の凶事に、外国からの投資や基幹産業である観光への影響は避けられないだろう。

 犯行声明を出しているのは隣国ソマリア南部を拠点とするイスラム過激派組織アル・シャバブ。一見無差別テロのようにも見えるが、モールから逃げ出してきた人からは、イスラム教徒は助けてやるから外へ出ろ、と犯人に言われたとの証言も聞かれる。

 2011年、ケニア政府が国内の治安を悪化させているとして、ソマリアへと軍を越境派遣したことへの報復とされるが、ケニアとソマリアとの争いは近年始まったものではない。

 その根源には、英領東アフリカのソマリ人居住地域である現在のケニア北東部が、独立の際、先に独立を果たしていたソマリアへ組み込まれることを望む住民の意見を汲み取らず、ケニア領となったことで、「大ソマリア主義」を掲げる者に争いの種を与えてしまったことがあるのだ(このあたりの複雑な歴史は「戦乱続くアフリカの角」で紹介済み)。

愛と哀しみの果て

 そこには欧州列強が勝手に引いた国境線の呪縛がある。

 1885年のベルリン会議に始まるアフリカ分割で、「英国のもの」となったケニアの地にやって来た白人たちは、高地での生活を好んだ。赤道直下にもかかわらず、涼しく肥沃なケニア人の土地を、勝手に我がものとして、「ホワイト・ハイランド」としたのである。

 デンマーク人女性カレン・ブリクセンも、1914年、ケニアでコーヒー農園経営を始めた。そして1931年に帰国するまでの紆余曲折の生活を綴った「アフリカの日々」は、アイザック(イサク)・ディネーセン名義で1937年に発表され、この時代の英領東アフリカの様子を窺い知る作品として今も読まれ続けている。