第5回アフリカ開発会議(TICADⅤ)は、「横浜宣言2013」を採択し閉幕した。今回の会議には、政情不安にあるマダガスカル、中央アフリカ共和国、ギニアビサウの3カ国が不参加となったが、TICADが始まった1993年、すでに内戦で無政府状態にあり、昨年ようやく正式政府が発足したばかりのソマリアが初参加した。

アフリカの角、東アフリカ地域の歴史

エリトリアの首都アスマラ郊外の戦車の残骸(2006年)

 海賊問題で日本でも知られるソマリアだが、ケニア東部ソマリア国境付近での警察襲撃事件にソマリアのイスラム過激派組織アル・シャバブが犯行声明を出した、というニュースが5月25日にも伝えられているように、まだまだ内戦は現在進行形。

 そして周辺諸国への影響も少なくないのが現実だ。そんな現状を理解するために「アフリカの角(つの)」と呼ばれるインド洋に突き出した東アフリカ地域の歴史をたどってみることにしよう。

 19世紀に入り、欧米人が長く「暗黒大陸」と呼んできたアフリカでも、内陸部の探検が始まった。それは英仏を中心とした「アフリカ分割」の始まりでもあった。

 英国はエジプトと南アフリカを結ぶ大陸縦断政策を取る一方で、フランスはアルジェリアなどマグリブを手始めにして大陸を横断。このとき、フランスの東の出入り口となったのが「仏領ソマリ(ランド)」だった。

 1977年に独立しジブチ共和国となったアデン湾に面するその地の名は、かつては「世界一暑い地」で聞かれる程度だったが、今や、ソマリア沖海賊対策で海外派遣されている自衛隊の活動拠点として日本でも知られている。

 とはいえ、このあたりが海賊に悩まされるようになったのは最近のことではない。19世紀、英国がイエメンのアデンに海軍基地を設置したのも、1つは、紅海からインド洋へと向かう船を海賊の襲撃から守るためだった。

 そして、その対岸となる仏領ソマリの東隣の海岸地帯にも英国軍は駐留、英領ソマリランドを設けたのだった。

 一方、西隣の紅海沿岸部エリトリアには、植民地競争に遅れてやって来たイタリアが食指を伸ばしていた。ところがエチオピア帝国が猛烈に反発。結局、帝位を巡る争いの渦中にあったメネリクを支援することで、無事帝位についたメネリクとの間にエリトリア割譲を認めさせる条約を結んだのである。

 ところが条約のトリックに気づいたメネリクがイタリアに抗議。その結果、戦争へと発展してしまうのだが、その戦いを制したのは意外にもメネリクの方だった。フランスから入手した武器がものを言ったのである。