今週は英語と日本語で同内容のコラムを同時に書いてみた。いろいろ考えた末、まず英語で書いてから「A Tokyo Perspective on the Bo Xilai Trial」という題を決め、そのうえで今この日本語バージョンを書いている。普通なら日本語が先で英訳が後なのだろうが、今回は全く逆だ。
もちろん、内容はほとんど変わらない。だが、英語と日本語ではどうも感覚が異なる。どう説明すればよいだろうか。とにかく、微妙に発想とロジックを変えないと上手く書き分けられない。人生59歳にして初めて持つ感覚とでも言うべきか、何とも不思議である。(文中敬称略)
「前例なき透明性」と報じた西側メディアの勘違い
今週の世界の関心は米国による対シリア軍事介入に移りつつある。
外務省時代中東が専門だった筆者にとって、より多くの人々がシリアに関心を持つことは喜ばしい。それでも、筆者には先週山東省済南市の裁判所で見た薄熙来の哀れな姿が今も目に焼きついている。
筆者は1953年生まれ、我らが日本ベイビーブーマー世代(団塊の世代とポスト団塊の世代)にとって、山東省にある中級人民法院の被告人席に座る薄熙来のイメージには、1980~81年に毎日のように報じられた「四人組裁判」で吠えまくったあの江青女史の姿が重なり合う。
薄熙来失脚は何を意味するのか。習近平の権力基盤を強化するとの声もあれば、弱体化させるとする向きもある。一体どちらが正しいのか。さらに、中国を専門とするジャーナリストや専門家の間でも、老若男女それぞれの見方には明らかに温度差があるように感じられた。
例えば、一部西側メディアは今回の裁判の模様がほぼ同時に中国版ツイッターで紹介されたことを「前例なき透明性」と報じた。
日本の若手専門家の中には、薄熙来が取り調べ段階の供述調書を翻したことを党指導部、特に幼馴染の習近平に対する戦い継続のサインと見る向きもある。
だが、よく考えてほしい。あの裁判のどこが「異例」なのか。
当時は受像機の数より視聴者の方がはるかに多かったろうが、あの悪名高き文革を指導した毛沢東夫人を含む四人組の裁判は国営放送テレビで生中継された。少なくとも、政治的重要性という点では薄熙来裁判も四人組裁判に決して劣らない。