原発難民を再訪する報告の3人目をお届けする。2011年に取材した6人の原発難民のうち、避難先と名前を伏せた人が2人いる。その1人が群馬県P市に避難した女性、木下さん(39歳。仮名)である。原発事故直後、クルマを運転して当てのないまま福島県南相馬市を脱出し、夫の兄がいるP市にたどり着いた。それまで、学校の同級生や親戚に囲まれ、引っ越しをしたことすらない人生を送ってきたのに、いきなり知り合いのいない見知らぬ街で、心の準備もなく生活を始めることになった。小学生の娘は学校で「放射能がうつる」とからかわれた。私が木下さんを訪ねたのは、その群馬県の街だった。南相馬市からは直通の交通機関すらなかった。

 P市は原発被災者の受け入れにまったく不慣れだった。右往左往の日々で、木下さんは疲労と緊張で追いつめられていた。その苦境を書くとき、私は感情的な反発が来ると思って名前や居場所を仮名にした。予想通り、ツイッターで「群馬をdisっている(悪口を言っている)のか」「恩知らずだ」「引っ越しがイヤだなんて甘えている」といった心ない文言が飛び交った。木下さんの苦境ももちろんだが、こうしたむき出しの「他者の痛みへの想像力の欠如」に私は暗澹たる思いがした。ただでさえ苦しい避難生活が、これではもっと苦しくなるのも道理だと思った。そうした理由もあって、今回も木下さんは仮名にしておく。

「この区切りを逃すと帰れない」

 木下さんにメールで連絡を取ると、待ち合わせに指定されたのは南相馬市役所近くのファミレスだった。地元の人たちと会うとき、よく指定される。地元の人たちは自分たちの「談話室」のように使っている。木下さんも、何人かとテーブルの客と会釈した。

 「ここに来ると、いつも誰か知り合いに会います」

 テーブルの向かいに座った木下さんは、くつろいだ顔でにっこり笑った。半袖ポロシャツの腕が日に焼けて健康そうだ。野菜の選別のパート仕事を始めたという。

 昼時で混雑していた。お腹が減っているようだ。私たちはカレーライスを頼んだ。10分足らずで食べた。

 群馬で会ったときより、ずっと元気そうに見えた。そのとき、季節は冬だった。木下さんは、緊張と疲労のせいか、表情が凍り付いたように動かなかった。時々頭を抱えて「ああもう、何とかしてちょうだいよ」と独り言を言った。いま、目の前にいる木下さんはずっとくつろいでいるのが分かる。

 「普通に、訛りを気にしないで話せるから、ラクでいいよね」

 私が「元気になられましたね」と言うと、木下さんは笑った。群馬で会ったとき、地元のお母さん仲間から「いい加減に(福島)訛りを直したら?」と言われたことをひどく気にしていた。その話だった。