1 欠落する脅威認識が日本を危うくする

 日本は、中国とのよりが昔のように戻るだろうという幻想を、もはや捨て去ったほうがよい。中国は本気だ。尖閣も必ず取りに来るし、南西諸島も支配下に置くよう必ず行動する。すでに沖縄では下工作が始まっていよう。

 2020年までにアジアでの軍事的優位を確立して、2050年頃には米国に対する覇権を確立する「中国の夢」は着々と現実になりつつある。

 少なくとも中国流のやり方で間違いなく着実に軍事の実力を向上させている。中国の力を過小評価したり、まだ軍事力は不十分だといっている人たちは非対称戦力(対称戦力の増強も含む)の意味とやり方が分かっていない。

 日本は尖閣に関心のほとんどが釘付けだが、日米、日韓の離反と、歴史問題のように中国は戦後の戦勝国の感情を持ち出し、日本の孤立化を図り、大層な宣伝戦とともに有利な情勢を作り出そうとしている。起死回生の一発がない限り中国の時間の長い、我慢強いアプローチに対して勝ち目はないだろう。

 頼みの米国も国際紛争に介入することには後ろ向きで、いまさらながら「話し合い」を強調する姿に、もはや覇権国としての気概は感じられない。かろうじて、自衛隊と米軍の良好な信頼関係によって日米関係は維持されているといっても過言ではない。

 その米国の核抑止力は低下しつつあり、軍事費も大幅に削減されていくことから、日本全般の防衛力は相対的に低下し、中国が日本に対して奇襲的な局地戦を仕かける敷居は低くなりつつある。そして、米国の「日本は自ら守れ」と「日本に米国装備品を買わせよう」とする圧力は確実に高まってくるだろう。

尖閣諸島

 日本人は、自ら脅威を認定し、自らの国防を自ら考えて準備する立場に一挙に追い込まれた自覚があるだろうか。

 中国や北朝鮮は、特に日本に対して武力行使することには何の躊躇もないだろう。ただ勝てる状況を作り、時を待っているだけだ。時間は何も解決してくれない。何も中国と一戦を交えなければならないと言っているのではない。

 しかし、「力」を信奉する中国の軍事的勢いや無謀な冒険を止め、冷静に考えさせるためには、やはり「力」では日本を押し込めないという「実力」と「決意・覚悟」を見せなければならない。

 それは端的に自民党の新防衛大綱の提言にあるような、大幅な防衛予算と人員、装備の増大である。たとえ国家財政が破綻しようと国があれば再興できるが、国なくして国家の繁栄はない。

 今年、完成させる新防衛大綱はまさに日本の運命を決める重要な局面であり、従来の延長であったりしてはならないし、尖閣だけに小さく特化して予算を始めから削ろうとするものであってはならない。

 前大綱を作ってからそんなに時間がたっていないので大きな変更は必要がないのではないかとの意見も散見されるが、それは戦略環境の激変を感じられない防衛音痴の意見である。

 その根本は、わが国の脅威認識であるが、残念ながら6月に出された与党たる自民党の提言にはいまひとつ芯がない。少なくともわが国周辺の安全保障環境は悪化しているとの認識は示したが、それがどうしたと言う結論が必要である。

 すなわち「日本に対する武力攻撃事態や偶発的な紛争の可能性は高まっている、または、否定できない」などの認識が示されるべきである。

 これが欠如していると国民の説得はおろか、財務省にも何も変わっていないのだから、財政再建を受け防衛費は従来どおり削減ということになりかねないだろう。自民党の従来の防衛費を削減してきたのは誤りだったという反省を踏まえ、さらに踏み込んでもらわなければならない。

 さらに悪いことに、島嶼防衛の範囲を先島諸島(宮古、石垣島から与那国島)に限ったことは、軍事的にも政治的なメッセージからも大きな誤りである。中国は海洋に進出する「9つの出口」として、南西諸島はおろか、日本海を通って北太平洋へ進出する事を明確にしており、実際に演習なども頻繁に行われている。

 今年に入って奄美大島や大東島付近まで潜水艦が出没し、五島列島には昨年100隻近い漁船が長期滞在した。五島は佐世保の出入り口を制しており、ここに中国の対艦ミサイルが配置されれば、日米の艦船はもはや佐世保を母港とすることはできなくなる。

 さらに、今年7月初旬には中ロ合同演習が日本海で行われ、7隻の中国北海艦隊の艦艇が夜間対馬海峡を通過して行った。中国の関心は、尖閣を落とし東シナ海を聖域化することと同時に、はるか西太平洋へと向かっていることを実感すべきである。中国には国境の概念はなく、力の及ぶ範囲がいわゆる国境である。

 以下中国の脅威とは何かを、2012.12に掲載された「中国軍人が明かした近海防御戦略」も踏まえ順を追って明確にしておきたい。さらに最後にこれまで控えてきた尖閣の作戦についても、尖閣だけに特化する皮相な防衛議論や浅薄な陸軽視論等を看過できず、一石を投じたい。