ことによると、結構多くの人に私は相当誤解されているのかもしれません。器用だとか、マルチだとか、そんなような誤解です。逆に、幼馴染など昔から私を知っている人間は全員口を揃えて、いかに不器用な人間か、いろいろ証言すると思います。
まあ、確かにいくつかの仕事を並行して進めてはいます。
私はクラシック系統の音楽を作曲します。自分自身のスタイルは、20世紀後半以降の、多くの聴衆には耳慣れない響きがする音楽です。
また私はオペラや管弦楽の指揮をします。ただこれは、華やかな舞台に立って颯爽とスタンドプレーだけしていればよい、というようなものとは似ても似つかない、地味な現場の叩き上げ仕事を、駆け出しの20代の頃も、それから四半世紀を過ぎた今でも、自分自身多くの手を動かして細かな仕事をしています。
音楽は子供の頃からレッスンで習い、コンクールに入って仕事が来るようになって生活が成り立つようになったものですが、学校は一般の大学に進み、理学部で物理を勉強しました。大学院も修士、博士と進み10年くらい物理との縁も続きました。
何か略歴のようなものを書くと、この種のキャリアだけが文字で並ぶので、何かとても器用で目から鼻に抜けるタイプとの印象を持たれるようなのですが、実際に会ってみるとイメージと違うらしく、ネットなどが発達していなかった頃は、仕事だけで私を知っていたという初対面の人から「もっとガリガリに痩せて銀縁メガネとかかけてる人を想像してました」と言われたこと複数回かありました。
残念ながら当時も今もガリガリには痩せておらず、メガネもかけていません。普段は大概ニヤニヤしています。
自分が今のような人生と生活になるに当たっては、いろいろな偶然がいくつも重なって、言ってみれば平均台の上を目隠しで走ったら何となく渡れてしまった、というような感じに近いのですが、いま自分が仕事にしている一つひとつについて、その原点をつぶさに思い出してみると、改めて「なるほど、そうだったのか」と気がつくこともあります。
例えば作曲ということを意識して始めたきっかけは、やむにやまれない子供時代のフラストレーションでした。
「塾の不条理」から始まった!
小学校5年のときでした。具体的には1975年のことです。私の通っていた小学校では、同級生の中で成績の良い子たちは塾に通っていました。まだそんなに受験競争が過熱するような時代ではありませんでした。
友達の多くは「四谷大塚」という進学教室に通っており、彼らの話題についていけなくて、何となく自分もそれに行った方がいいのかなと思ったのは5年生の夏休み頃だったでしょうか。
当時の「四谷大塚」は4年生の3学期頃からスタートするカリキュラムで、私は十分にその時点で「乗り遅れた子」だったわけです。教師の母は進学塾のようなものには懐疑的でしたが、通いたいのなら通ってもよい、という反応でした。
この進学教室は「予習」をして行くと、毎週日曜日のテスト本番で類題が出て高得点が取れる、というシステムになっていました。
「予習シリーズ」というテキストがあって、それをあらかじめ教えてくれる「火木教室」なんて予習クラスがあったりして、その分月謝を払えばあらかじめ教えてもらえるので、得点も上がるという仕かけです。