砂漠の下に豊富な石油を湛えているサウジアラビアに例えて、日本は海のサウジアラビアと呼ばれることがある。暖流と寒流が行き交う豊富な水産資源ばかりではなく、海底にはハイテク産業の発展に不可欠な希少元素をはじめ、豊富な鉱物資源やメタンハイドレートなどのエネルギー資源も手つかずのまま。
国を守ると言うと、どうしても仮想敵国からの軍事的脅威から国民を守るということだけを考えがちだが、日本という国の持続的発展を考えた時には、周囲に広がっている豊かな資源を守り育てていくことも極めて重要なテーマである。
海は誰のものか
本題に入る前に、まず海の所有権について歴史的な背景を振り返っておきたい。古代ローマでは、海はすべての者に開放される万民の共有物と考えられていたため、古代から中世前半にかけて海洋を航行することは自由であった。
しかし、中世後半になると、ベネチアやジェノバなどの都市国家が近海の領有を主張し、通交する外国船舶から通行料を徴収するようになった。
その後、大航海時代になると、ポルトガルとスペインがそれぞれの勢力が拡大した範囲の領有を主張し、1493年にはローマ法皇が、それを追認するような教書を発表した。
英国のエリザベス女王は1580年、世界で2番目に世界一周を果たしたキャプテン・ドレーク(フランシス・ドレーク)の太平洋航海に対するスペインの抗議を拒絶するとともに、1588年にはスペインの無敵艦隊を撃破し、名実ともに「海洋の自由」が確立された。
16~17世紀におけるオランダのグロチウスの「海洋自由論」と英国のセルデンの「閉鎖海論」の論争を経て、19世紀には公海自由の原則の確立とともに、沿岸国の安全と漁業利益を中心とする領海制度が確立された。
領海+公海から領海+排他的経済水域へ
このように、「領海」と「公海」という2元的海洋区分は、沿岸国の安全・漁業その他の利益の保護に対する主張と、国際社会のために自由に使用し得る海洋を万民の共有物として開放しておこうという2つの方向からの要請を調和した結果である(栗林忠男『現代国際法』)。
この2元的海洋区分は、1973年の第3次国連海洋法会議までその基本的秩序を継続するが、1973年からの第3次国連海洋法会議において「領海+排他的経済水域」と「公海」という「続2元的海洋区分」が基本原則として承認され、沿岸国の権利が拡充されるとともに、資源管理を重視する方向に変化した。
この結果、(1)領有権を巡る国家間の紛争、(2)資源・エネルギー需要増大に伴う安全保障環境の劇的変化、(3)海洋資源に対する権利或いは管轄水域確定を巡る対立、(4)主権的権利や管轄権の過剰な主張による航行制限などを、予見し得る将来の不安定要因として挙げることができる。
ところで、国連海洋法条約が成立し新しい海洋レジームが確立したが、国際社会を律するものは条約か、それとも力(国家意志)であろうか。