3.11当時、経済産業大臣だった海江田万里・衆議院議員(現在は民主党党首)にインタビューした。経産大臣は電力を担当する経済産業省を指揮・監督するだけではない。原発の安全・規制・防災を直接担当していた原子力安全・保安院(当時。その後原子力規制委員会へ再編)は経産省の別組織である。その安全保安院を指揮・監督する立場でもある。つまり3.11当時、福島第一原子力発電所事故を担当する官僚組織(経産省~安全保安院)の長だったのが海江田氏だった。例えて言うと、原発事故は経済産業大臣の「持ち場ど真ん中」での事故とも言える。海江田氏はそんな重要な立場にいた。3.11当時対策を決定する政府内の政治家職では、政府全体を統括している総理大臣や官房長官よりも直接の担当大臣だったと言える。
インタビューを申し込んだ直接のきっかけは、海江田氏が3.11を振り返った回顧録『「海江田ノート」原発との闘争176日の記録』(講談社)が2012年11月に出版されたことである。一読して、貴重な証言録であることが分かった。それまでの報道や事故調査委員会報告では出ていなかった「初めて聞く事実」がいくつも述べられていたからだ。その中に、私がずっと「なぜここで時間の空白が生じたのか」と疑問に思っていた「地震当日の空白の130分」について海江田氏も言及していた。そしてそれに率直な批判をしている。かつての菅内閣の同僚閣僚のミスや「海江田氏の証言がなければ出てこなかった事実」も述べられている。海江田氏のノートを元にしたという事実の記述も正確だった。信憑性が高いと私は考えた。
福島第一原発事故の発生直後に現場取材に行ってから、私がずっと考えている疑問は「なぜ住民避難が遅れ、失敗したのか=なぜ住民が被曝するという重大な失態に至ったのか」である。その疑問の出発点の1つに、原発の立地町である井戸川克隆・双葉町長(当時)から聞いた証言がある。震災翌日の3月12日午後3時36分、最後の町民の避難を双葉厚生病院(原発から3キロ)で誘導している最中に、1号機の水素爆発が起きた。直後に白い降下物を浴びた。そんな内容である。つまり避難開始があと1時間、いや30分早ければ、町長はじめ、同病院にいた300人前後の町民や職員は、降下物を浴びずに済んだのではないか。
そう考えつつ東京に戻って当時の政府内部の動きについて取材してみると、地震発生当日の3月11日から12日にかけて、何をしていたのか説明がされていない「空白の時間」が何箇所かあることに気づいた。回顧録を読んでみて、そのいくつかに海江田氏が同じように疑問を持ち、触れているのが私の目を引いた。要点だけ先に述べる。
・地震発生直後、一度済ませた緊急閣僚会議を「テレビカメラの前でもう一度やろう」とやり直した。30分かかった。
・福島第一原発からの「全電源喪失通報」(原子力災害対策特別措置法が定める、いわゆる15条通報)が原子力安全・保安院に届いてから、海江田大臣に届くまで50分かかった。
・原子力緊急事態宣言の発令を上申するために首相官邸に行った海江田大臣を待たせたまま、菅直人総理は党首会談に行ってしまった。上申から発令まで50分かかった。
海江田氏とのインタビューは2013年2月28日、東京・永田町の衆議院第一議員会館にある海江田氏の事務所で行われた。海江田氏側から提案されたインタビュー時間は30分だった。他にも聞きたい項目は多々あったが、時間内にできる質問として、この「空白の130分」について尋ねることにした。
最初インタビューの申し込みは回顧録の出版元である講談社の担当編集者を介して2012年11月に始めた。が、その後2012年12月の衆議院選挙で民主党が敗北して下野し、海江田氏が民主党党首に就任するなど大きな動きがあった。海江田氏が多忙を極め、直接連絡を取るべきだと考え、担当編集者の了解を得て海江田事務所と直接スケジュールの調整をした。
前回までの班目春樹・原子力安全委員長とのインタビューと同じように、前もって「強引な編集をしない」「できるだけ忠実に一問一答を再現して載せる」ことを提示した。海江田氏側から「出版前に原稿を見せろ」という要求はなかった。