地方経済見聞録

専業主婦がいきなり鋳物屋の社長に、
経営の才能が開花して急成長

2013.03.06(水)  橋本 久義

明石初子さんの日課は毎日汽車が着く時間に金沢駅に夫、明石米吉の姿を探しに行くことだった。

 米吉さんは、金沢の歩兵第107連隊に所属し、南方のポナペ島(ポンペイ島)へ派兵されたのだが、あまり大きな島ではなかったため、玉砕を免れた。終戦後は、米軍の占領地域であったため、本土帰還は比較的早かった。

 しかし、初子さんは誰がどういう順番で帰ってくるかを知らない。駅に探しに行ってもむなしく帰る日が多かったが、10月頃にやっと米吉さんが帰ってきた。出会うことができた。米吉さんは元は体格のいい人だった。だが、肝臓をやられて骨と皮になっていたので、初子さんも、最初に見たときには誰だか分からなかったという。

「女だてらに、と言われるのが悔しかった」

 出征前、鋳物工場の工場長をしていた明石米吉さんは、帰還後に明石鋳造所を設立した。

 スタートの時は、米吉さんと、新保三郎さん(初子さんの妹の旦那さん)と見習い職人さんの3人だった。その後米吉さんが開業したと聞いて、かつての部下たちが5~6人来てくれた。他社と違いを出すため、非鉄合金鋳物(当時は銅・真鍮)を専門にした。他社の納屋を借りて創業した。

 初子さんが「嫁入りのときに持ってきた上等な着物を、戦争中にすべて食べ物と取り替えてしまった」という話をすると、米吉さんは、「そうか。苦労かけたのぅ。じゃが着物なら今に箪笥に入りきらんほど買ってやるわい」と言ったという。

 当時の鋳物の作り方は、鋳型を順番に土間に並べ、鋳型と鋳型の隙間に鋳物砂を詰める、いわゆる土間込めという方法。熔解には、ドラム缶に耐火レンガを内張りした手製のコークス炉を使い、湯汲みと呼ばれる柄杓のような道具に銅合金を汲んで鋳型に注湯した。

 鋳造された鋳物は1個1個、手ノコによって切断された。当時はあらゆる工程がすべて手作業によって行われていた。

 朝鮮動乱時には多忙を極め、その後も順調に経営を続け…

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