東日本大震災後に被災地を訪れた時の衝撃は忘れることはできないだろう。

 長い人生で、こんなに残酷な現場は見たことがなかった。見渡す限り瓦礫の原・・・。流されてゆく自宅を見ておられた被災者の方々の心境を思うと言葉もなかった。

 1年半後に岩手県宮古市を訪ねてみた。前に訪ねたときに比べて瓦礫は片づけられていたが、復興はまだまだであった。全体の復興構想が決まっていないから手のつけようがない。

 地盤が海抜以下になってしまった地域がたくさんある。これは地盤カサ上げせざるを得ないだろう。しかし海抜1メートルまで上げるのか、海抜3メートルまで盛土するのか。極端な人は15メートル盛れと言うし・・・。

 宮古のすぐ北側に隣接した山田町はかつて海軍航空隊のあったところ。米軍基地を経て現在は航空自衛隊山田分屯基地が置かれている。

 東日本大震災の時には大津波の後、猛火に包まれ、陸中山田駅も焼失するなど町は壊滅的打撃を受けた。

始まりは中古機械での賃加工

 その山田町に電子機器部品製造メーカーのエフビーがある。「ファイン・ビジネス」の頭文字を取って「FB」だという。創業者は田鎖巌さん。最近社長を引退し、相談役になった。

 田鎖さんは、若い頃はプロの写真家を目指して、山、海、野原を駆けめぐって、希少な野鳥や猛禽類、ほ乳類の写真を撮って歩く毎日だった。写真を撮るための費用を稼ぐために、アルバイトは何でもやった。土木作業員、運転手、清掃員、セールスマン・・・。マグロ漁船に乗ったこともあったらしい。

エフビー相談役の田鎖巌さん

 しかしスキャンダル狙いのパパラッチはともかく、「美しい自然」を写真に撮ってもなかなか生活は成り立たない。周りの人たちが心配して当時宮古地区に進出してきたヒロセ電機の内職仕事を強く勧めてくれた。

 「熱硬化性プラスチックを成形してコネクターを作る仕事でした。実習が必要ということで、1日に1800円も日当を頂戴しながら覚えさせていただきました」と田鎖さん。

 「設備を揃えようとしても資金はありません。『お金は銀行に行けば貸してくれるだろう』と安易に考えていましたが、全く相手してもらえませんでした。結局、叔母の土地を借用し、叔父の信用で建築費を月賦にしてもらい、妹の定期預金を担保にして銀行から100万円を借りて始めました。社員の送迎も私が中古車でやりました。『田鎖製作所』という看板を掲げての船出でした。30歳を目前に控えた頃です」