前回まで3回の福山哲郎官房副長官(3.11当時)とのインタビューを掲載したところで、今回は一度立ち止まってみる。

 これまで私は、3.11直後にフクシマの被曝被災地に取材に入ってから1年半の間ずっと「なぜこんなにたくさんの人々が被曝したのか」つまり「なぜ住民避難に失敗したのか」という疑問への答えを出そうと取材を続けてきた。

 巨大地震と津波は防ぎようがない「天災」である。が、調べれば調べるほど「その後、住民が被爆しないよう避難させることは可能だったのではないか」と思うようになった。つまり福島第一原発が全電源を喪失したあと、住民避難に失敗したことは「人災」ではないのかと考えるようになったのだ。

 地元の市町村を回り、福島県に取材し、やっと当時の首相官邸中枢にいた福山官房副長官にたどり着いた。時同じくして、国会、政府、民間などの事故調査委員会の報告が出揃った。それを読んでも、なおまだ「分からないこと」が残った。

 今回はここまでの取材で「分かったこと」と「なお分からないこと=さらに調べなくてはならないこと」をまとめておくことにした。これまでの膨大な取材結果をいったん整理し、これからの道筋を見てもらうためである。一種の中間報告だ。

【1】福島第一原発事故の避難の範囲や方向を決める権限は国にある

 これは「原子力災害対策特別措置法」(原災法)「災害対策基本法」などの法律が組織や権限を決めている。その細目(避難範囲のキロ数など)は「防災指針」「防災マニュアル」などが決めている。

 「原子力緊急事態宣言」が発令されると、福島県や市町村ではなく、国に住民の避難指示や屋内退避措置などを発令する権限が与えられる。市町村をまたいで住民を移動させる、一種の「地方自治の部分的停止」である。この「原災法」の効力が始まる宣言が「原子力緊急事態宣言」の発令なのだ。この瞬間、対策本部の本部長は内閣総理大臣、事務局長は原子力安全・保安院院長が就任する。事務局長は情報を収集して総理に報告するハブである。つまり指揮者であり責任者の内閣総理大臣の片腕は内閣官房長官ではなく原子力安全・保安院院長になる。だから、のちに(1)緊急事態宣言を首相が出すのが遅れた(2)寺坂信昭保安院長が11日夜に官邸から保安院に帰ってしまったことが問題になってくる。

【2】オフサイトセンターが機能せず、住民避難は片翼飛行になった

福島県が発行する「福島県原子力災害対策センター」のパンフレット

 福島第一原発からわずか5キロ、今も無人のままの大熊町に「福島県原子力災害対策センター」(通称オフサイトセンター)がある。国や自治体、電力会社などが集まるはずだった。つまり原発の事故状況を情報収集して、地元市町村に連絡する情報のハブとして設計されている。この機能は「原子力災害対策特別措置法」で法的根拠を与えられている。法律がその役割を規定するほど、重要性が高く、保護された施設なのだ。

 このセンターが通信や交通の途絶でまったく機能しなかった。担当者が集まることもできなかった。センター自身の放射線量があがって危険になった。後に3.11の住民避難実施で問題になる「地元自治体への避難開始、方向や距離の連絡」は、本来このセンターで、それぞれの自治体の担当者が顔を付き合わせて行われるはずだったのだ。その連絡方法は失われ、しかも電話やファクス、インターネットは混乱・途絶してしまった。こうして避難の法的権限者である国(東京)と避難対象者(福島県の地元)は分断された。