国際社会において、紛争や戦争へ傾斜していく過程を見ると、経済の時代から政治(外交)の時代へ、そして政治の時代から軍事の時代へと「情勢悪化のスパイラル・モデル」を辿って行く様がよく分かる。

日中両国は、深刻な「政治の時代」に突入している

尖閣領海侵入、「通常の巡視活動」と中国政府

沖縄・尖閣諸島付近の日本領海に侵入した中国の漁業監視船(上)と追跡する海上保安本部の巡視船〔AFPBB News

 平和な時代は、「地経学(Geo-Economics)」理論家などが主張する経済至上(万能)主義が幅を利かせ、また、ひたすら経済活動に専念できる経済の時代である。

 しかし、いったん平和が揺らぎ、あるいは貿易摩擦など経済上の問題が大きくなれば政治的解決が求められ、いわゆる政治の時代へと移行する。

 政治的解決に成功すれば再び経済の時代へと情勢を引き戻すことができるが、失敗すれば、最後は力による解決、すなわち国家の「最後の砦」としての軍事の時代へ突入する。これが、国家間における「情勢悪化のスパイラル・モデル」の一般的展開である。

 日本と中国の現状をいかに判断するかは議論が分かれるところであろう。

 しかし、中国が我が国に突き付けている歴史認識に名を借りた反日運動(「歴史戦」の仕かけ)、尖閣諸島の領有権問題、日中中間線付近における資源エネルギー(ガス田)の開発問題、軍事力の急激な増強近代化と我が国周辺における活動の活発化などの挑戦的・挑発的行動によって、日中間の平和は大きく揺らいでいる。

 両国はすでに政治の時代に突入し、かなり深刻な情勢に陥りつつあると見るべきであろう。

 どのような市場(マーケット)でも、安全保障の枠組みの中において機能する。その事実を見落としていた経済至上(万能)主義者の丹羽宇一郎氏を在中国日本大使に任命したのは、明らかに当時の菅直人総理大臣の誤った情勢認識と、政治主導で決めたとの軽薄なパフォーマンスによるミスキャストとしか言いようがない。

 生存の確保や安全の保障は、我々が呼吸する空気のように天与のものと考えられがちで、それが失われたときに初めて認識される傾向が強い。今、多くの日本国民は、国内外の厳しい情勢に直面して、そのことを痛切に感じつつあるのではなかろうか?

平和は、守るべき至上の価値か?

 平和は、人類にとって、あるいは国家国民にとって守るべき至上の価値であるのか――。今も昔も変わらない、我々に突き付けられた根本的な問いかけだ。

 オランダの法学者で、「国際法の父」、「自然法の父」と呼ばれるグロティウスは、その主著『戦争と平和の法』において「平和とは単に戦争の前ないし後を意味するに過ぎない」と述べている。

 また「広辞苑」(第五版)を繙くと、平和とは「戦争がなくて世が安穏であること」と説明している。つまり、「平和とは、戦争のない状態である」と理解するのが一般的なようである。

 人類の歴史は、おおよそ3400年余であるが、その間、世界が平和であったのは300年足らずだと言われている。10年間に換算すると、そのほとんどの期間(9年11か月)、世界のどこかで戦争が繰り広げられ、わずか1か月間が平和であったことになる。

 人々は、平和な時にはそれを当然視し、平和の対立概念として戦争を忌み嫌い、拒絶する。しかし、現実に、戦争を常態化し、逆に平和を例外的な状態あるいは特別な事象としてきたのは、紛れもない人類自身である。

 人類は、平和を希求すると言いつつ、それを破り捨てて何かの目的ために戦いを選んできた。それは、平和以上に戦ってでも守るべき価値があるということを意味しているのではないのか。

 つまり、人類にとって、あるいは国家国民にとって平和が守るべき至上の価値であるのかどうか、はなはだ疑わしいのである。それが、長年にわたって英知を結集して人類が築いてきた筈の歴史が示す真実である。