前回に続いて「福島第一原発の見える街・双葉町」への訪問記を書く。

 7月上旬、福島第一原発から3キロの地点に住んでいた小島詠一さん(36、仮名)の一時帰宅に同行した。20キロライン(立入禁止ゾーン境界)の検問をくぐってから戻るまで、許された時間はたった5時間だった。放射線量が高いので、積算の被曝量を減らすには滞在時間を短くするしかないのだ。

 小島さんの「一時帰宅」は去年の3月11日から4回あった。しかし、1回ごとの滞在時間が短すぎて、片付けに手をつけることができない。必要な用具や持ち物を運び出すのが精一杯だ。地震でひっくり返った家の中を片付けることもできない。1年4カ月、そのまま何も変わらない。それがいつ終わるのかも分からない。福島第一原発が立っている双葉町と大熊町だけで、そんな人が1万7000人いる。全体ではおよそ10万人(強制避難者)にもなる。

 小島さんの家の前から、福島第一原発の排気塔が丘の向こうにそびえているのが見えた。破壊された1~4号機を補修する白と赤の巨大なクレーンも、たくさん見えた。東京都心部から東京タワーやスカイツリーが見えるような感覚だった。3キロとは、そんな至近距離だ。

 そんな場所なのに、避難訓練は形式的だった。同じ3キロ圏内、自宅近くにある公民館に歩いて移動するだけなのだ。訓練は半日で終わった。そんな調子だから、3.11が来たとき、3キロ圏の外に逃げるバスなど交通手段も用意もなければ、避難先も決まっていなかった。まして、30キロも離れた場所に逃げることなど考えたことがない。おまけに救援のバスは来なかった。自家用車を運転して避難した。道路は大渋滞だった。

 さらに私が驚いたのは、同じ双葉町内でも、3キロ圏の外は避難訓練など一切なかった、ということだった。それが分かったのは、小島さんの奥さんの実家に立ち寄ったときだ。こちらは原発から4キロの地点である。

 「3キロ圏の外」といっても、小島さんの自宅と奥さんの実家は1キロしか離れていない。車で5分もかからず着いてしまう。まさに「スープの冷めない距離」である。4キロ地点でも、現場に立ってみると、原発が直近であることには変わりない。

 双葉町に来る前に取材した『原子力防災』の著者で「ERSS/SPEEDI」の設計者でもあった松野元さんが「電力会社や原子力安全・保安院は『格納容器は事故が起きても壊れない』ことにしていた。そうしないと、日本では原発が立地できないから」と指摘していたことを思い出してほしい。その原子力安全・保安院=国が実施する避難訓練も「格納容器は壊れない」前提で行われていたと考えるのが自然だろう。そうすると、なぜ避難訓練がかくも形骸化していたのか説明がつく。

 ここまでが前回の話だ。