Summary:日本は1970年代に石油ショックを経験しており、エネルギー問題の壁に突き当たるのは初めてではない。だが寺島氏によると、エネルギーは戦略的事項であるにも関わらず、日本の対応はこれらの危機を経ても市場を通じた‘解決策’に頼るというその場しのぎなものに留まっている。福島の事故後、日本は今一度エネルギー戦略の岐路に立っている。国内では脱原発感情が高まっているが、日本が原発を維持する切実かつ現実的な理由もあるという

 

一般財団法人日本総合研究所 理事長
寺島実郎

 寺島氏は、福島事故後にエネルギー基本計画の見直しに向けて設置された経済産業省の総合資源エネルギー調査会の委員を務めている。2012年2月16日、エコノミスト・インテリジェンス・ユニット(EIU)は、日本におけるエネルギー政策の歴史的側面と将来的展望について寺島氏から話を聞いた。

EIU:戦後日本におけるエネルギー界で見られた主要な変化とは?

寺島実郎(JT):1961年、日本の一次エネルギー供給構造において、石炭から石油への転換が図られました。日本の高度成長期を石油化という流れが支えたといっても良いと思います。そして1973年・1979年と、日本は2度の石油危機を経験しました。石油に過剰に依存していることの危険性を衝撃的に思い知らされたわけです。

 1973年、私は日本経済研究センターで2000年の国家エネルギー戦略をどうするかという研究プロジェクトに参画し始めました。ローマクラブの『成長の限界』が出たのはその頃です*1

 地球を一体として考えて、資源や人口、環境といった問題をトータルに取り上げた先駆的レポートでした。・・・これらを受け止めて、化石エネルギーから再生可能エネルギーへの転換をいち早く視界に入れてプロジェクトを進めていました。

 再生可能エネルギーに対する関心が高まり始める一方で、石油危機に直面する前の1971年、日本で初の商業用の原子炉が福島で始動しました。化石燃料に過剰に依存している状況から脱するためにという問題意識もありましたし、アメリカの原子力政策に対する意図、要するに軍事技術の民生転換(つまり平和利用)という意図と期待も背後にありました。

EIU:2度の石油危機は、日本のエネルギー戦略にどのような変化をもたらしましたか?

JT:日本は戦後2度の石油危機に直面しながら、それを教訓にしてエネルギーの安全保障上、戦略的な手を打って今日に至っているかというとそうではない。いつもその場しのぎできた面がある。例えば、1973年、日本の中東への石油依存率は78%でした。

 ところが気づいてみると、今日本の中東への石油依存度は8割前後です。石油危機に直面してエネルギーソースの多様化や分散化を図ったはずなのに、です。

 理由の1つは、世界の流れがエネルギーの自由化へと向かったからです。つまり、エネルギーは、戦略的な商品というよりも、市場に任せた方が安定的にエネルギーを運営できるという考えが主流になっていったのです。

 特に1980年代から1990年代にかけて、長期的な先行投資やリスクの分散といったエネルギー安全保障の議論は、1セントでも安い石油を市場で調達してくるという考え方へ一気にシフトしました。易きに流れたのです。要するに、タンカーを巨大に太らせてホルムズ海峡を越え、数珠繋ぎにして日本に運んでくるのが(日本にとって)一番良いということになった。

*1=Donella H. Meadows, Dennis L Meadows, Jørgen Rangers and William W.Behrens III: The Limits to Growth, Universe Books, New York, 1972.