一国民としてお恥ずかしい話だが、もし、今回の北朝鮮ミサイル騒動の期間に、例えば大物芸能人のスキャンダルなど話題性のあるニュースが明るみになったなら、「衛星」打ち上げ報道にはこれほどまでに熱が入らなかったかもしれない。

 まともに考えれば、そもそも通過ルートにかかる沖縄の先島諸島も、まして首都圏などに被害が及ぶことは蓋然性が低いのだが、日本人の場合はこれくらい大規模な動きをしないと安全保障などについて考えるタイミングがなく、その機会を提供してくれたという意味では国民保護の啓蒙という面でそれなりの意味があったのではないだろうか。

 本来ならば、中国艦艇がわが国領海への接近を繰り返していることなど、じわじわと行われていて、こちら側も段々と慣れつつある事象の方が問題が大きいのかもしれないが、「ニュース性」や「インパクト」という点では「ミサイル打ち上げ」の方が勝っていると考えるのがメディアの心理だ。

 こうしたメディアの特質を借りて、日本の人々にもう少しまともな安全保障認識を持ってもらう、あるいは国民の現状意識を知るための観測気球になったとも言えなくもない。

MDはベストではなくベターな策

 しかし、問題はその本質まで行き着かないままこの騒動が文字通り「お祭り騒ぎ」で終わってしまうことだ。

 私自身もよく尋ねられたのは「MD(ミサイルディフェンス)って当たるんですか?」ということ。

 特に国内に配備された「PAC3」について、これまで航空自衛隊による迎撃試験では2回中2回が成功しているが、全てがお膳立てされた上で行われていることや、弾数も十分とは言えないこと。また、PAC3は長射程のものは迎撃できないとして、この存在そのものを問題視するような話が様々になされていた。

 ここで改めて確認しておきたいのは、そもそもMDはミサイルに対処するベストな方法ではないということだ。

 「PAC3は迎撃した場合に破片が飛んできて危ない」などという批判には、「ミサイル攻撃で被害を受けるのと、どちらがマシなのか?」と思ってしまうが、確かに、落ちてくるミサイルを直前で迎撃するという発想は、被害もやむなし、多少の犠牲は仕方がないというものなのである。

 国民の犠牲を出さずにすむ最もいい方法は、策源地(ミサイル発射基地)を叩くことだ。これは国会答弁でも合憲と解釈されてきている。

 1956(昭和31)年の衆議院内閣委員会で鳩山一郎内閣が「我が国土に対し、誘導弾等による攻撃が行われた場合、座して自滅を待つべしというのが憲法の趣旨とは考えられない。他に手段がないと認められる限り、誘導弾等の基地を叩くことは法理的には自衛の範囲に含まれ、可能である」と答弁したことはよく知られている。